読書の感想:「女中がいた昭和」河出書房新社

 

女中がいた昭和 (らんぷの本) | 小泉 和子 |本 | 通販 | Amazon


上記図書を読んで感じたことを、気ままに書いてみよう。

 


 戦後日本の占領軍家庭で雇われた家事使用人と「高度人材優遇」のための「家事使用人」の採用の類似点と相違点について論じる。まず類似点についてだが、大きく四つの類似点がある。

一つ目の類似点は、雇用主の使用人に対する経済的優越である。戦後の占領軍家庭に従事する家事使用人の雇用する側について見てみると、資料①にも書いてあるように間接雇用の時期の雇用主は日本政府であり、賃金を政府が支払っていたという意味でも雇用主が明らかに使用人に対して経済力で優越している。また、これは高度人材優遇のための家事使用人についても言える。資料②によると「家事使用人の帯同の許容」の条件として「高度人材の年収が1,500万円以上であること」と記されており、また別の条件には「家事使用人に対して月額20万円以上の報酬を支払うことを予定していること」とある。月収20万円ということは年収に換算すると240万円となり、こちらも明らかに雇用する側が家事使用人に対して経済的に優越している。

また、二つ目の類似点は「子供の世話」をするということが家事使用人を雇用する条件の構成要素としても、仕事の内容としても重要性を持っているということである。資料①の129項にあるように、占領軍家庭での家事使用人の雇用条件として、「十九歳以上」「三十歳未満」「三十―三十五歳」などと記されている。高校生や中学生などの少女は雇用条件を満たさなかったことは明白であり、「子供の世話」をすることに比較的、また一般的に適した年齢であることが雇用の条件だったことがわかる。そして資料①の141項に「なお道具について入れなかったがベビーシッターとしてのメイドたちの証言もある。ベビーシッターの際、子供が善悪を判断できる年齢になると、悪いことをしたときは叱ってください、叩いてくださいと言われたという。」と書かれている。当時、アメリカ人が上で日本人メイドたちが下という力関係があったにもかかわらず「叩く」という他人の子供にする場合リスクを伴うしつけさえもメイドたちは課されていたことがわかる。まさに「子供の世話」の重要性が表れている。また、「高度人材優遇」のための「家事使用人」の帯同の条件についても、資料②に書かれているように、主要な条件を満たさない家事使用人の雇用についての条件の一項に「家庭の事情(申請の時点において、13歳未満の子又は病気等により日常の家事に従事することができない配偶者を有すること)が存在すること」とあり、「子供の世話」ということが家事使用人雇用の条件の特別な要素になっていることがわかる。またホックシールドの提唱した「感情的余剰価値」の概念にみられるように家事使用人が自分の子供へ注げない愛情を従事する家庭の子供にそそぐという賃金にならない価値が加わることがあるためこれからも「子供の世話」ということが仕事内容として重要性を持っているということがわかる。

そして、三つ目は占領軍家庭で雇われた家事使用人にも「高度人材優遇」のための「家事使用人」の帯同に関しても労働基準法が適用されなかったということである。資料①の145項に「労働基準法は労働条件の最低基準を定めた法律で・・・同法の適用範囲から家事使用人は除外されたためである。」とあるように戦後すぐには家事使用人に対しては労働基準法が適用されなかったことがわかる。そして現在においても同じように家事使用人に対して労働基準法は適用されていない。ケアの分野は経済のアンダーグラウンドを担う「不可視」な分野であり、「家事使用人」と認定された時点で労働の実態を把握することは困難となり、その労働の特殊性も相まって労働基準法が適用されなくなってしまうという問題を抱えていた。

そして最後は「帯同する家庭の世帯主の使用する言語の使用」に関しての類似である。資料①の129項の募集要項を見ると「英語の多少わかる方」と記されており、また142項にも「語学の勉強はどうしていたのかと聞くと、“一日一単語ずつ覚えれば一年で三百六十五個覚えられるわ”と奥さんと、二人で字引を引きながら勉強したそうだ。」とある。当時の占領軍はアメリカ人でありもちろん使用する言語は英語であるから、世帯主の使用する言語のある程度の使用が求められていたことがわかる。そして次は「高度人材優遇」のための家事使用人の帯同に関する隠れた前提を確認する。前提の一つに「“高度人材”が使用する言語を話すこと。」とありこちらも世帯主である高度人材の使用する言語の使用が求められている。以上「雇用主の使用人に対する経済的優越」、「家事使用人の雇用の際の‘子供の世話’ということの重要性」、「労働基準法の適用がされないこと」、「帯同する家庭の世帯主の使用言語の使用」の四つが類似点である。

 


次に相違点について論じる。 

一つ目は「雇用までの家事使用人としての実績の評価」である。占領軍家庭で雇われた家事使用人については資料①の140項に「生活習慣の違いがメイドたちにとっては大きな障害だったようである。」とある。また141項には「しかし一面では冷暖房完備の家の中で、新しい家具食器を使うことは新鮮で面白いことでもあり、誇りでもあったと考えられる。」とあるように、日本人にとってはアメリカの文化は何もかも新鮮で初めての経験であり、一から家事労働者としての職業を始めていたことがわかる。これに対し、「高度人材優遇」のための「家事使用人」の帯同に関する資料②の許容条件を見ると「帯同する家事使用人が本邦入国前に一年間以上当該高度人材に雇用されていたものであること。」とあり日本に帯同するためには過去の実績が伴う必要があることがわかる。ここに家事使用人としての実績の評価の有無が如実に表れている。

 


二つ目は家事使用人雇用の人数に関しての違いである。戦後の占領軍家庭で雇われる家事使用人は資料②に何度も「数人の」と記してあるように一人でなく数人である場合も多かったことがわかる。おそらく、家事使用人の雇用人数は規制などなく何人もの家事労働者が従事していたと思われる。これを可能にしたのは間接雇用制度であろう。資料②の127項に「労働者は占領軍の指揮を受けて使用されるものの、雇用主は日本政府であり、給与は戦後処理費から支出された。」とある。そして、まぎれもなくこの間接雇用制度が数人の家事労働者の雇用を可能としていた。というのも、日米安全保障締結による米軍の駐留の継続に先立って米占領軍の日本人労働者の給与がアメリカ側の負担に切り替えられると、同じく資料②の144項に「そのため、これまで数人の使用人利用していた家が、給与が自己負担になったことを受けて使用人数を減らし、労働者一人当たりの労働量が増加したなどのケースもあったようだ。」と記されるように、日本政府が雇用をしている間接雇用の場合とは違い、アメリカの各家庭が給与の負担をする直接雇用になると、使用人を多く雇うことができなくなったからである。一方で「高度人材優遇」のための「家事使用人」の帯同の許容条件には資料②より「帯同できる家事使用人は1名まで」とある。また高度人材優遇の隠れた前提としては家事使用人の就労は一人の雇用主に限定されるということがある。さらに上述のように許容条件には高度人材の最低限の年収や、家事使用人に対する報酬の最低額などが定められている。ここから言えるのは「高度人材優遇」のための「家事使用人」の帯同においては初めから直接雇用制度が用いられ、この制度を可能にするのは就労先も、雇用できる家事使用人の人数も「一人」に厳格に定める許容条件である。さらには、逆に就労先も、雇用人数も「一人」であるから直接雇用制度を用いることができるとも言える。

以上の「雇用までの家事使用人としての実績の評価」と「雇用形態と、雇用人数の条件」の二つが類似点である。

『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』の方法的特徴の考察

 

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はじめに

私が本記事で取り上げる著作は、高木徹(2011)『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争講談社文庫、である。この著作は、1990年代に起きたボスニア紛争を題材にしている。ボスニア紛争において、あるアメリカのPR(Public Relation)会社がいかに、暗躍していたのかという視点でボスニア紛争の構造を明らかにしている。著者は、「人々の血が流された戦いが「実」の戦いとすれば、ここで描かれる戦いは「虚」の戦いである(p.17)」と述べている。つまり、実際に血が流れた紛争についての研究ではなく、PR会社を通した歴史的事実の裏で起こっていた紛争についての研究である。

 本記事ではこの著作にはどのような方法的特徴があるのかについて分析を行う。

 


方法的特徴① 綿密なインタビュー調査

 この著作の最も大きな方法的特徴は、綿密なインタビュー調査の元に書かれている点である。著者はNHKに所属するジャーナリストである。したがって、ボスニア戦争当時の多くの重要人物に取材をしている。PRの力によって、ボスニアを勝利に導いたPR会社のキーパーソン、ボスニア側の外交官、セルビア側の首相、アメリカ世論を味方につけた大手紙の責任者など、一般人ではアクセスすることができないような情報源に多くの取材をしている。もちろん、著者本人による努力も大きいが、NHKの職員であるという自らの肩書きもこのような重要な情報源へのアクセス可能性に大きく貢献しているだろう。

 また、綿密なインタビュー調査によって記述されているため、当時の重要人物が何をしゃべったのか、いかにしゃべったのかということを鉤括弧のセリフ形式で記述している箇所が多い。例えば、「たった今戦火のサラエボからやってきて興奮冷めやらぬ、という風情で語り続けた(p127)」などである。何を言ったのかは議事録などの記録に残っていることがあっても、それをどのようにしゃべったのかということについては記録には残らない。この「どのように」という要素は、綿密なインタビューによってのみ明らかにできることである。そしてこの描写によって、この著作の読者は当時の情景をより具体的にいきいきと思い浮かべることができる。

 


方法的特徴② 通底するPRというテーマ 

 この著者は、ボスニア紛争という歴史的な出来事を「PR」という観点から一貫してとらえ続けている。当時、ボスニア紛争についてはセルビアの残酷さ・ボスニアの悲惨さなどの感情的な側面だけが目立っていた。しかし、本書はセルビアが悪で、ボスニアは被害者である、というような善悪を明らかにするものではない。PRがボスニア紛争において、どのように機能し、その結果ボスニア紛争はどのような様相を呈したのかという極めて冷静な観点から紛争を分析している。

 歴史研究に関する著作には、歴史的な出来事の因果関係を明らかにすることに重きをおくものが多い。例えば、ジャレド・ダイアモンド(2012)『銃・病原菌・鉄』は、同じような条件でスタートしたはずの人間が、今現在では一部の人種が圧倒的優位を誇っているのはなぜか、という問いに対して、「環境」の違いという答えを導いている。これは、歴史的な結果「人種による差」の原因「環境」を明らかにしようとするものである。

 しかし、本著作はPRの国際情勢への影響力を検証するということに主眼を置いている。そしてPRの国際情勢への影響力を検証するための素材として、アメリカのPR会社が暗躍したボスニア紛争という歴史的出来事を選んだのだ。結果として、ボスニア紛争によって劣勢だったボスニアが勝利したという歴史的結果の原因をPRという答えによって明らかにしている。このように、著作の結論

は他の歴史研究と違いはないが、なぜその研究をしたのかという動機が「歴史の解明」ではなく、「PRの国際情勢への影響力の検証」である点が特徴である。

 


まとめ

 以上、『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』の方法的特徴について①綿密なインタビュー調査、②通底するPRというテーマ、という観点から分析を行った。

 ①については、歴史研究において最も重要なのは情報源にアクセスすることが可能なのか否かということである可能性が示唆される。もし著者が、NHKの職員ではなく新米のフリージャーナリストであったら、ここまで綿密なインタビューはできていないだろう。また、二次資料だけで当時誰が何を言ったのかまでは明らかにすることはできるが、本書のように具体的な話し方を記述することはできないだろう。

 ②については、歴史研究は必ずしも歴史的事実についての何らかを明らかにすること目的としなくても良い歴史研究ができることが示唆された。歴史研究というと、歴史的事実の重要性などに目を向けなければならないと思われがちだが、本書のように何か自分が明らかにしたいテーマがあり、それを検証するための素材として歴史的事実を使用するという研究方法も重要であることがわかる。

 以上,『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』の方法的特徴について論じてきた。今後は、インタビュー調査という質的研究手法ではなく、歴史を計量的に研究した著作についての検討も行いたい。また、この著作と同じように、あるテーマを明らかにするための素材として歴史的事実を使用している研究も引き続き分析していきたい。

読書の感想:『異文化適応のマーケティング』

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最近、積読していた本を再度読み始めた。

広告代理店勤務の身として、コミュニケーションに関連する章が特に興味深かったので、要約と論点を提示する。

 


 13章 異文化間のマーケティング・コミュニケーション1:広告

言語とコミュニケーションに基づく広告は、マーケティング・ミックスの中で最も文化に依存する要素といえる。したがって文化的な違いが、広告の様々な面に影響するのである。本章では前半に、広告への一般的な態度と文化差が広告戦略や表現の基準にどの程度影響を与えるのかを考察する。後半では、前半とは対照的に技術進歩によるメディア利用可能性やメディアの選択について話を進め、最後には広告のグローバル化について議論していく。

広告は国際的にみると有益なものである。しかし、広告は浪費であるとか否定的に捉えるパブリフォビアはヨーロッパ諸国を中心に依然と残っている。また、広告への態度や重視する点は国ごとに異なっている。特に比較広告への賛否は国ごとで大きく分かれ、有効性も異なる。

実際の広告戦略では、文化の差異を考慮し広告アピールの仕方や、広告の情報内容を考える。そこで、広告アピールでは、文化ごとの訴求点から象徴的アピールと情報型アピールを使い分けている。広告の情報内容は、その文化圏の人々が何を重視するかによって情報型、説得型、空想的・夢想型のいずれかに焦点をあてて作られている。一般に、広告戦略では情報内容とスタイルは現地の嗜好に適合しなければならないのである。

また広告の実行段階でも企業は意味の移転ができるよう考えなければならない。例えば、言語、ユーモアのタイプ、登場人物とその役割、視覚的要素というのは文化ごとに異なる。企業は同じ意味を伝達させるために、標準化できるのか、適応化しなければならないのか注意深く考慮する必要があるのだ。また、各文化にある道徳観や宗教の影響、そこから生まれた慣習などを考えなければならない。広告の実行は精密な情報に従って慎重に行われるべきなのである。

これまで広告の異文化間の差異に焦点を当ててきたが、グローバルなオーディエンスとともにグローバルなメディアも出現してきた。さらに、技術進歩によりインターネットやテレビ衛星も普及した。それと同時に、現在多くの広告会社も国際化され、その広告自体も標準化が増大している。しかし、実施やメディア計画などは標準化できない。ミッションなどとは違い、そのようなコミュニケーションを必要とするところでは適応化がされるべきなのである。

 


14章 異文化間のマーケティング・コミュニケーション2:人的販売、ネットワーク、パブリック・リレーションズ

 この章では人的販売とパブリック・リレーションズについて議論していく。そのために、商取引、ビジネスネットワーク、買い手と売り手の相互作用などにも言及しながら話を進めていく。最後には、人的販売で倫理的な問題となる賄賂に関して述べていく。

 商取引では、サービス主体論への移行に並行して、売り手と顧客との相互作用を重視されるようになった。つまり、技術を活用し顧客との有効な関係性を築き、維持することが必要になる。そのような関係性マーケティングにおいては、販売員の担う役割や、顧客接点を文化差に注意しながら作ることが重要である。また、企業同士の関係性も同じように大切である。しかし、中国の独特の「关系」マーケティングと呼ばれるもののように、文化によってその関係性のあり方は根本的に異なる。

 売り手となる販売員の役割は重要である。しかし、販売そのものに対するイメージや、金銭の価値観、権力格差などの要因から販売員の社会的なステータスや役割が決定される。したがって、文化によって販売員の行う業務は異なる。さらに、買い手と売り手の立場も国によって異なることを注意しなければならない。

このような異文化を比較して、販売員のマネジメントを考察していく。給与体系や、販売員のインセンティブはもちろん文化間で異なる。インセンティブの制度は、ホフステッドの次元を用いて大きくモデル1とモデル2に分けることができる。前者は個人主義的で低コンテクスト、加えて権力格差が小さく不確実性回避傾向が高い社会に当てはまる。後者はそれとはまったく反対の社会に当てはまる。報酬制度もこれに当てはめ考えられる。これらは極端なもので、実際には組み合わされるものである。報酬システムの標準化は変動性が小さい地域では可能であるが、文化的価値や商品のカテゴリーにあった形で実施、設計することが重要である。

パブリック・リレーションズには2つの役割がある。1つは平常時に好ましい企業イメージを創造、改善することであり、もう1つは危機的な状況下で企業側の誠意を伝えることである。これらの広報活動は信頼や関係性を保つためにコミュニケーションに重点を置いている。そのため、企業はローカルに考えて現地の人々の権利を重視しなければならない。さらに、企業には誤解を生まないような明確なメッセージを発信する責任がある。

収賄の習慣は、多かれ少なかれどんな文化にもみられる。しかし、文化によっては贈収賄のタイプや、金額などの方法も異なる。このような倫理的な問題は、善悪の判断は文化次第であるとする文化的相対主義と、普遍的な倫理上の基本原則が存在するという文化的普遍主義という2つの考え方から捉えることができる。国際的には、OECDの協定や、ICCの働きなどにより賄賂への規制は進んでいる。実践的見解としては、賄賂は常にリスクをともなうため、個人が自己の規範に従って考えるべきである。

 


論点

 論点は2つある。

まず、p.495にドイツ文化のように不確実性回避傾向の高い文化は、より不確実性を減少させる情報の量が多い広告を好む傾向にあると述べられている。これは納得できる論理ではあるが、事実に反しているように思える。なぜなら、第3章で扱ったp.68の表によれば西ドイツの不確実性回避は65とあるのに対して、広告の情報量が少ないと書かれていたフランスは86、イタリアは75と書かれており、ドイツよりも不確実回避の傾向は強いと思われる。すると、情報量の差は不確実性回避とは関係がないようである。それならば、コンテクストの程度、美に対する志向など、他の要因が考えられるのではないかという疑問を抱いた。もしくは、ここで述べられていたドイツとイタリア・フランス情報量の差は広告の媒体によって異なるのかもしれない。

 つぎに、p.576とp.579に、発展途上国では贈収賄などの不正が多く、東欧のデンマークフィンランドニュージーランドでは不正の割合が少ないと述べられている。さらに、これらはインフレ率や賃金水準、経済状況に起因していると書かれている。私は、加えて政治の体制や権力格差の問題があると考える。独裁政治などが起こる権力の格差が大きい地域では、監視する機関が機能しないため不正が起こりやすいのだと思われる。実際、不正の水準が低い国では概して権力格差の割合が高くない。また、本文では発展途上国の倫理基準が低いと考えるのは賛成しがたい考えとあるが、経済状況やインフラなどの関係から十分な教育が受けられないことは事実であり、倫理基準が低くなってしまうことはあるのではないかと疑問に思った。

 

その他の参考

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プレゼンテーションの極意

広告代理店経験の中で、今でも忘れられない上司からのフィードバックがある。クライアントへのプレゼンテーションを終えた後にもらったフィードバックだ。5年目の私は、正確な分析、面白い示唆出し、そして綺麗な資料は作れるが、なぜかプレゼンの場が盛り上がらずうまく話が進まない事態に直面していた。

 

そのうちの一部を、プレゼンで悩んでいる方たちに蔵出ししよう。

 

・沈黙を恐れない

→プレゼンテーターは沈黙を恐れすぎている嫌いがある。自分が視聴者として見ている時には間があっても気にならない。なのに、自分がプレゼンをするときはすごく気になってしまう。その間を「まあ」とか「えー」で埋めてしまう。これによって、プレゼンに重厚感がなくなり、聞き手の興味を疎外してしまう。大事なのは、沈黙を恐れず適宜間を作ること。「テレビだったら放送事故ギリギリ」と感じる程度までは沈黙をしてもいいのだ。正確には覚えていないが、ブリーチの藍染が「多く語りすぎると、弱そうに見えるぞ」的なことを言っていた記憶がある。これは正しいのだ。適度に沈黙を与えるプレゼンテーターの方が、できる人に見える。そして、その方が相手の興味を引きつけ続けることができる。

 

・パーソナルな話をする

→プレゼンを聞いている人は、他でもなくあなたの話を聞きたいのだ。一般論を聞きたいからあなたの前に座っているのではない。一般論が聞きたいなら、本を読んでいれば良いのである。それにもかかわらず、資料に書いてある真面目な文章を読み上げるだけでは、聞き手の興味は長続きしない。「僕が新入社員の頃にも同じような話があって〜」「今お話ししたポイントが大事であると、再認識できた経験が最近もおきて〜」といったように、適宜自分だけが持っているエピソードを話すべきである。そのエピソードは、その会議の全ての人間が初耳だ。相手の興味を惹きつけることができるのだ。

 

・明るさが大事

→仕事は、ただでさえ、多くの人にとって「嫌な」ものである。朝早く起きて、憂鬱な気分で仕事に望んでいる。それなのに、あなたのプレゼンテーションまで、退屈な顔をして、不機嫌そうな話し方をしていると、前向きな決定事項は生まれない。緊張しているからテンションが低い話方になる場合もあるだろうが、見ている相手としては不機嫌そうに見えていることも多いのである。上記のことを意識して、その場であなただけでも、笑顔で、楽しそうに、明るい声色で話すべきである。そうすれば、憂鬱な気分だった会議の出席者も、少しは前向きな議論をしてくれるだろう。プレゼンの質疑応答でネガティブチェックのような質問しかない場合、それはあなたの話し方が暗かったことの現れだと思った方が良い。

 

・保険をかけるな

プレゼンをしている時、ついつい「この結論は、もちろん一つの解釈なので、別の捉え方もできると思いますが、〜〜〜」といった言葉や、「因果関係が逆な可能性もありますが、〜〜〜」、「ここまでの調査結果の、速報的なまとめなので、これから変わる可能性もありますが、〜〜〜〜」といった、自分の話ていることが間違っている可能性があると保険をかける話し方をする人がいる。さて、あなたは「この車、場合によっては壊れる可能性がありますし、見た目のデザインも人によって好き嫌いが分かれます、おすすめできる人もいますが、おすすめできない人もいます」と言った自身のない車のセールスマンから車を買うだろうか。お店まで来ている人は、すでに背中を押して欲しいというところまで意思が固まっている人も多い。そうであれば、あとは自信を持っておすすめすればいいのだ。変な保険はいらない。そしてプレゼンの場にわざわざ出てきている人も、往々にして背中を押して欲しい場合が多い。自信を持ってあなたの意見を押し切ってみよう。

 

・君の動きは、意外と見られている

プレゼン中、自分の手が意識下にない人が多い。次のプレゼンで、意識をしてみて欲しい。意外と多くの人が、プレゼン中に、顎を触ったり、髪を触ったりしている。このような姿は、意外と気になってしまうのである。プレゼン中は、あなたの全てが情報になる。聞き手の大事な注意の半分くらいが、あなたが髭を触ると、あなたの髭を見るところに割り振られてしまうのだ。それではもったいない。せっかくあなたが話している、いい話が、半分しか入ってこないので。身振り手振りは、自分のタメじゃなくて、プレゼンの内容を補完するために使おう。

 

これらの全てをすぐにできるようになるか?そんなことはない。これを読んで理解することは、プレゼンをうまくなるまでのプロセスのうちの1割程度にすぎない。本当に大事なのは、何度もプレゼンをして、上記のポイントの1つでも、完璧にできなくては良いからやろうとすることだ。ここまで読んだあなたには、プレゼンを繰り返し行い練習をすることしかやれることはないのだ。

 

上記のフィードバック以外に大事なポイントは、下記の本によくまとまっていた。興味があればぜひ買ってみて欲しい。

 

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「名称」とそのイメージについての一考察

      

 

 

 

私は大学時代に社会科学概論という授業を一年間学んでいた。その授業の中で、ある事象に付与された名称には、その名称が本来的に持つ意味とは別のイメージが、生活者の解釈活動の中で付与されるダイナミズムを理解することができた。ここに改めて整理したい。参考にした書籍は下記だ。

 

 

今、「資本主義」、「共産主義(あるいは社会主義)」という生産体制に付与された名称と、我々がその名称に抱くイメージについてもう一度考えてみることにした。このことを考えるにあたっては中・高生だったころは試験への知識としてしか見てこなかった「教科書」を再読してみることにした。教科書は今や全国民が避けては通れない道であり、影響力も尋常なものではない。それにもかかわらず、今になって考えると教科書には物事の本質とイメージとの間で違和感のある記述が多々ある。この違和感を解き明かすためにも「資本主義」と「共産主義」に付きまとう虚構的なイメージの検証を試みる。

 


まずは「資本主義」という用語について我々が持つイメージについて述べる。帝国書院出版の「社会科 中学生の歴史」においては次のような表記が見られる。「1970年代の初めまで続く経済の急成長は高度経済成長とよばれ、国民の生活水準は高まりました。」(236頁)「高度経済成長によって、人々の生活が豊かになる一方で・・・」(237頁)。ここからわかるのは、「『資本主義』体制下で可能となった(これは中学生には意識されないであろうが)」朝鮮特需や高度経済成長によって、戦後の国民は物質的に「豊かな生活」(要するに現代社会での生活様式)を手に入れたという事である。ここで注目したいのは、このような教科書によると、「失業者の増加」や「公害問題」「深刻な不況」などを資本主義の課題であるとする一方で、資本主義体制の存在を根本から否定するような「社会運動」や「資本家の混乱、動揺、謀略」についてはほとんど記述がないという点である。それはまさに、社会科学概論で学んだ労働争議の歴史であり、資本家による労働者へのリスクの押しつけであり、その裏に潜む「階級政治」という事である。このテストでは具体的な労働争議や階級政治についての批判は控えるが、この「階級政治」という概念を死へと追いやる様々な言説や、「中流意識」の植え込みによって資本主義体制下の政治の悪魔的な側面に人々が気づくのを防いでいるという事である。山川出版社の「詳説日本史B」の374こうには1960年代には「自分は社会の中層に属していると考える人々が国民の9~8割を占めるようになった。(中流意識)」との記述がある。まさかこの記述を高校生が疑うわけはないだろう。このようにして、日本社会が、資本主義の下に格差のない平等な社会であるという事を暗に示している。しかし実際には、このような「中」意識への調査は「恣意的な集計結果にすぎない」ものであり、その「中」意識という結果は「『豊かな』社会を生み出す『新しい』構造変化の兆候であり、その表れでなければならなかったのである。」(青木書店 「階級論の現在 イギリスと日本」126こう 著者:ジョン・スコット、渡辺雅男 ほか) このように現代日本の政治は「中流」の人が気づくと困るタブー的な側面を持っているのだ。このタブーとよばれる事(労働争議の歴史、階級という概念、資本家から労働者へのリスクの押しつけetc)について、記述がないことから、日本の教育もこの様々な「資本主義の裏の顔」の隠蔽工作の共犯だと言っていいだろう。ここまで来ると、資本主義社会で起こる労働問題(リストラ、子供の労働etc)や経済問題(深刻な不況、貧富の差etc)についての申し訳程度の記述はもっと大きな階級構造に気づかせないようにするための譲歩のようなものでないかとさえ思えてくる。このように資本主義について我々は「便利で豊かな生活水準」をもたらしてくれたシステムであるというイメージを持つだろうし、そのようなイメージを持たされてきたのだ。

 


次に「共産主義(または社会主義)」についての我々が持つイメージについて述べる。これも同様に教科書を参考に捉えていく。山川出版社「詳説世界史B」の327頁にはソ連が資本主義世界との交流なく社会主義の基礎を築いたと説明した後に「しかし、スターリンは古くから有能指導者をはじめ、反対派とみなした人びとには根拠のない罪状を着せ大量に投獄・処刑して独裁的権力をふるい、スターリンの個人崇拝を強めた。」また中国の文化大革命についても353頁に「10年にわたる文化大革命は中国内部に深刻な社会的混乱をもたらし、経済・文化活動を停滞させた。」とある。このようなことを学校の教科書で学ぶため、我々は「共産主義」及び「社会主義」という名称に対し「暴力的・独裁的」なイメージを持つ。また、ソ連が日ソ中立条約の期間内に日本の占領地への侵攻したことも、戦争を経験した人々にとっては共産主義への悪いイメージを持つ要因となるだろう。このような教科書の本質を探ろうとしない一面的な記述や、戦後の政府の共産党への弾圧や謀略によって「共産主義」のイメージは我々の中に作られていったのだ。また、近年においては尖閣諸島の領土問題などにより「社会主義国家」を名乗る中国への嫌悪感が浸透しつつある。そして中国への嫌悪感は強まり、「中国共産党は情報統制をする」「貧富の格差が大きい」「中国人は狡猾だ」などの面ばかりを強調して訴える人も増えている。これが現代日本での「共産主義」への拒絶を決定づけたのかもしれない。我々は、教科書でのスターリン毛沢東の失敗や、現在の中国の現状だけを「共産主義」のイメージとしてしまったのである。

 

 

我々は、国内では「中流意識」に見られるようなイメージの刷り込みが行われているのに、一方では中国政府の情報統制を批判するという矛盾に気づいていない。さらには、その矛盾の中に居るから(また、居させられるから)こそ国内の政治、経済体制、もっと言うと「資本主義」についての疑問を持たずに「共産主義」への抵抗を持ち続けるのである。

今まで見てきたように我々は「資本主義」の悪魔的側面に気づくことなく「共産主義」への抵抗を増してきた(安倍政権下でさらに増大するかもしれないが)。私はここで、共産主義を良く言い、資本主義を悪く言いたいのではない。私は、我々が「資本主義」や「社会主義」に抱くイメージが本質と乖離しているのではないかということである。現代には「資本主義」か「共産主義」、「右翼」か「左翼」、「原発稼働」か「電気料金の値上げ」、などの二項対立が数多く見受けられるが、この二項対立は片方への盲信、またもう一方への敵愾心を生む。これが時には人を戦争へと駆り立て、時には人を差別へ向かわせる。しかしその二項対立は概して、真に対立するものではない場合が多い。このような「ウソ」の二項対立の選択を迫られても、動揺することなく、また他人に二項の選択を迫るのでもなく、その二つのものの本質を探ることが重要なことである。そのためには真実のイメージをまず捉えなおさなければならないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

広告ビジネスの可能性

この書籍を参考に

広告ビジネスのこれからについて考えてみた

 

現代広告論 第3版 (有斐閣アルマ) | 岸 志津江, 田中 洋, 嶋村 和恵 |本 | 通販 | Amazon



1.はじめに

 本記事は、広告ビジネスのこれからの可能性について、事業パートナー(第2章)、公的政策のパートナー(第3章)、メディアパートナー(第4章)、ビジネスプレイヤー(第5章)、という4つの側面から言及していく。

 


2.事業パートナーとしての可能性

 まず、事業パートナーとしての可能性について。現在の広告会社の業務は、実に多岐に渡っている。従来通り、マスメディアでの広告活動も行なっているが、商品開発、企業内のインナーコミュニケーションなどあらゆるマーケティング活動を事業会社のパートナーとなって行なっている。この事業パートナーとしてのビジネス領域は今後ますます拡大していくと思われる。具体的には、流通から販売までの有機的連帯によるオムニチャネル化や、企業間M&Aの補助など、コミュニケーション領域のあらゆるマーケティング活動を行うようになるだろう。

 


3.公的政策パートナーとしての可能性

 次に、公的政策のパートナーとしての可能性について。今現在も、株式会社電通は、パブリックコミュニケーションについてのビジネスを国と連帯して行なっている。地デジ化の周知、節電の呼びかけ、選挙争点理解の推進などの政策のコミュニケーション活動を行なっている。人々の情報源がテレビや新聞からインターネットなど多様化している今現在、コミュニケーション活動に強みのある広告会社が担う公的政策パートナーとしての役割はますます拡大していくだろう。

 

 

4.メディアパートナーとしての可能性

 そして、さらにメディアのパートナーとしての可能性について説明する。周知のことであるが、日本の広告会社、特に株式会社電通はメディア、特にテレビと共に発展してきた。その流れで今も、メディア部門とクリエイティブ部門が分離していない会社もある。これは否定的な文脈で語られることが多い。しかし、メディアとクリエイティブが連帯して働くからこそ、広告収入として今現在も大部分を占めるテレビや新聞の媒体価値を上げることができる。今後広告会社は、衰退産業と呼ばれているマスメディア業界の、コンテンツ作成や編集に関わる業務を増やしていくだろう。メディアの価値を媒体社と共に創ることで、共栄していくことができる。

 


5.ビジネスプレイヤーとしての可能性

 最後に、ビジネスプレイヤーとしての可能性について。広告会社にはマーケティング活動について、特に広告コミュニケーションについての知見が膨大に溜まっている。新しい技術を用いた製品や、いわゆる良い製品が売れるわけではない現代においては、「伝え、そして売る」という広告会社のアイデアや技術の価値は膨大なものになるだろう。しかし、今現在は、広告会社はコミュニケーション活動に特化しており、それ以外に大きなビジネスを動かしているわけではない。しかし、少しずつ車内で新規事業を行う流れがきていることからも、今後広告コミュニケーションに関係するもの/関係しないものも含め、自らの出資によりビジネスをプレイする立場はより大きくなっていくと予想できる。

 


6.まとめ

以上、広告ビジネスのこれからの可能性について、極めて推測的であるが、論じてきた。今後、広告会社はビジネス領域、活動領域を広げて、ますます原義的な「広告」という意味から離れていくかもしれない。しかし、私は広告会社の仕事とは「人を幸せにすること」だと思っている。クライアントのお金でビジネスをしようが、自分のお金で広告に関係ないビジネスをしようが、それが人を幸せにするビジネスであるべきだと考えている。そして、いつの時代も人に夢を与え、不便を解消し、人を感動させてきた広告会社には、もっと大きな、人を幸せにするビジネスができると思っている。

日本における政治と宗教の関わり方はどうあるべきか? Part2

 

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1.はじめに

 本記事の目的は、日本社会において広く普及している行事(正月・クリスマス・葬式・バレンタイン等)において、T.ニッパラダイの提唱した「流浪する宗教性」という現象がみられるのかどうかを明らかにすることである。

 日本社会における正月・クリスマス・葬式などの、何らかの節目に執り行われる行事はしばしば、「日本は無宗教である」「日本は多宗教である」という議論と結びつけられることが多い。なぜならば、正月は神社に参拝し、クリスマスにはプレゼントを譲渡し、葬式はお寺で行う(家庭によって異なるが)という諸行事は神道キリスト教・仏教という異なる宗教がベースであるからである。また、日本社会においてそれらの行事は宗教的行事であるということがもはや意識されていないということも、上記の議論の要因の一つだろう。

 しかし、この日本社会における宗教的現象を単純に「無宗教」「多宗教」であると分析するのは、あまりに短絡的ではないだろうか。このような問題意識から、本レポートではまず、日本社会における上記のような諸行事を、「流浪する宗教性」という概念によって分析する(第2章)。そして次に、それらの行事に認められる「流浪する宗教性」が消費社会と分ちがたく結びついていることを明らかにする(第3章)。さらには、諸行事にみられる「流浪する宗教性」が、近代社会の形成とともに発展してきた科学性を持ちながらも、神秘主義的そして時にはオカルティックな要素を併せ持つという二面性を明らかにする(第4章)。最後に、日本社会において消費されるさまざまな「宗教性」が、これからどのような方向にむかっていくのかということについての可能性を示唆する(第5章)。

 

2.日本社会の諸行事に見られる「流浪する宗教性」

 本章では、「流浪する宗教性」が、日本社会における正月・クリスマス・葬式という、何らかの節目において執り行われる行事において、どのように認められるのかということを明らかにする。

 まず始めに、正月という行事は、神道がもとになっている。また、この神道という宗教は日本が起源の多神教であると言われている。神道は、日本の国民国家形成・近代化・ナショナリズムの高揚のために、利用されたという歴史をもつ。そしてこのことが、第二次大戦後に反省され、見直されたことは、政教分離の原則や、現代の宗教の多様性に見てとれる。

 クリスマスは、日本社会においては、キリスト教の内にあった宗教性が、キリスト教から離脱し、文化現象の中に流入した最も顕著な例であるだろう。大衆的なクリスマスというイベントには、もはや「イエス・キリストの誕生を祝う」要素はなく、各々が家族あるいは親密な他者とプレゼントを譲渡し合うという性格をもっている。

 最後に、葬式は、その一族が仏教系でない場合や、仏教系であっても日常において、仏教の宗教性は全く意識されないような家庭においても、仏教式に執り行われることは多々ある。これは、「自らは無宗教である」という意識はあるが、誰かがその生を終えたときに「何もしない」ということを避けるために、一般的な仏教式の葬式が行われることが多いだろう。

 以上のように、日本において何らかの節目に行われる行事は、その宗教性が、本来その行事が属していた宗教(神道キリスト教・仏教)の文脈から逸脱し、大衆文化の中に流入し、独自に解釈され、変容している状態を顕著に表している。このことから、日本において執り行われる諸行事には「流浪する宗教性」が見られると言うことが明らかとなる。

 

3.消費される宗教性

 前章では、日本社会における正月・クリスマス・葬式という行事に「流浪する宗教性」が見られるということを説明した。本章では、その「宗教性」が消費社会と分ちがたく結びついていることを明らかにする。

 正月に、人々は一般的に知人に年賀状を送り、おせち料理を食べ、神社に参拝をする。この一連の行動において,大衆の間ではもはや「神道」という宗教は意識されていない。つまりは、この場合の「神道」は人々の行動を規定してはいないのである。しかしながら、正月にみられる上記のような行動は、日本大衆の多くが毎年行っている。ここで、大衆の行動の規定因として考えられるのが消費である。年賀状にしろ、おせち料理にしろ、参拝時のおみくじにしろ、そこには金銭を支払い、何か得るという経済活動としての消費という要素が存在する。クリスマスにおいても、クリスマスケーキ・クリスマスツリーとその装飾品・会食・プレゼントの購入など、きわめて多様な消費が行われている。葬式も、葬儀会社がさまざまなグレードの葬式を提示し、会食・弁当・粗品の譲渡などの消費活動が行われる。

 このように、正月・クリスマス・葬式という行事は、その行事のベースとなっている宗教ではなく、消費によって強く規定されている。そのような行事においては、日本人口のきわめて多くの人が何らかの形で消費をおこなうため、企業にとってサービスや製品を提供する絶好の機会なのである。近代化・産業化・資本主義化において、その力を強めてきた消費が、「流浪する宗教性」と結びついて、諸行事の宗教性をより大衆文化にとって受け入れやすいものにしていく過程が見て取れる。

 

4.「流浪する宗教性」の2面性

 前章では、日本における正月・クリスマス・葬式という行事が、元の宗教から逸脱し、消費と強く結びついて、大衆文化に流入していくことを説明した。本章では、そのような「流浪する宗教性」が科学的側面と、オカルティックな側面の2面性を有していることを明らかにする。つまり、消費社会において宗教性が消費されているが、そもそも人々はなにを考えて、そのような行事をおこなっているのかということを分析し、それが上記の2面性をどのような形で有しているのかということを説明する。

 正月は、前年一年への親類や知人への感謝と、本年度の一層の親交を願う。また、参拝においては、何らかの「願い事」をする。これはつまり、そのような宗教的行事を「原因」とすることで、自ら願ったことを「結果」が得られるという意図が見て取れる。また、クリスマスにおいては、現代日本においては、思いを寄せる人と結ばれることや、恋人と一層親交を深めるというイベントと捉えられている面もある。ここにも、クリスマスという宗教的行事が「原因」となり、縁結びや親交の強化という「結果」が想定されている。葬式においても、同じように、葬式を行い、経を読んでもらい、火葬することがが「原因」であり、故人の死後の世界での安寧・幸福が「結果」とされている。もちろんこれらのことは、各人が明確に意図している訳ではないが、無意識的にそのような意図をもって行事を行っていると考えることはできる。このことは、原因と結果という因果関係を想定し、それに伴って行動を行うという意味で「科学的」であると言うことができる。つまり、日本社会における宗教性は科学的な利用をされている。

 一方で、このような「科学性」は自然科学・社会科学においての、厳密な手続きがなされた上で同定された因果関係ではない。むしろ、大衆文化の中で、行事がより多く消費されるために、擬似的な因果関係が設定され、「もっともらしさ」が付与されたものであると考えられる。誰も神社で「億万長者になれますように」と願ったら、本当に億万長者になることができると思っているのではないが、それでも人々は神社に参拝をし、「なんとなく」ことがうまく行きそうな「感じ」を味わうのである。このような側面は、上記の科学的な側面と反対に、きわめて神秘主義的・超現実的・オカルティックなものであるだろう。

 このように、人々は宗教性を消費する過程で、擬似的ではあるが「科学的」な因果関係に従って行動をしている。その一方で、その科学性は擬似的でしかなく、ともするとオカルティックな側面をもつ。日本の諸行事にみられる宗教性は、この相反する2面性を持っているのである。

 

5.これからの「流浪する宗教性」

 これまでの章では、日本社会に「流浪する宗教性」が認められること、その宗教性は消費によって強く規定されていること、さらには、科学的側面とオカルティックな側面をもつことを説明してきた。この章では、本レポートの終章として、日本社会における「流浪する宗教性」がどのような方向に向かっていくのかということについて論じる。

 日本社会における宗教性が消費と強く結びついているということは、今後大きく変化しないだろう。なぜならば、宗教性の消費という市場は、日本において莫大な経済活動領域である。12月は、クリスマスによる支出と正月を迎える準備のための支出(クリスマスプレゼント・おせち料理・年賀状など)が重なる時期である。総務省統計局によると平成25年度のデータでは、12月は一ヶ月あたりの支出総額が一年の内で最高額である。このことからも、正月とクリスマスにおこなわれる経済活動の大きさが見てとれる。

 さらには、上記のような「科学的」な因果関係が設定されていることもあり、大衆に受け入れられ易く、文化に広く・深く根付いている。人々が、「科学的」な因果関係によって裏付けられた宗教性を消費する限り、経済活動と結びついた宗教性は依然衰退することはないだろう。したがって、これからは宗教性が消費されることによって、社会にどのような弊害が生じるのか、どのような利益があるのか、宗教性と消費の関係を変えるためにはどうすれば良いのかということについての更なる研究がなされることが期待される。