マーケティング関連のおすすめ読書

以下に広告・マーケティング従事者が必ず読むべき書籍・持つべきものをあげる。

カテゴリーなどがランダムであるが、お許しいただきたい。

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これらの本を読んで私が考えたことは以下だ。是非参照してほしい。

  1. はじめに

広告会社はその事業領域を、コミュニケーションから統合的なマーケティング領域に拡張して久しい。その過程で、広告会社のストラテジックプランナーの役割も、「コミュニケーションへの戦略家」だけでなく「マーケティングの戦略家」へと転換が迫られている。

 しかし、そのような状況のなかで、うまくストラテジックプランナーの対応領域が広がった結果、疲弊やタンジブルな成果が感じられずに業界を去ってしまう人も増えている。

 そのような問題意識から、本論文では広告会社のストラテジックプランナーが活躍する領域を拡張するために、新たな戦場について考察を行いたい

 

  1. 広告会社のストラテジックプランナーの主戦場は「購買の促進」でいいのか

 広告会社の戦略プランナーがある種の主にとして背負っているのが KPI である。それが、ブランド認知、興味、理解、あるいは、クリック、コンバージョン、いかなる数値であれど、中間指標として「購買・契約」にヒットするという前提で作られている。

 確かに、それはビジネスの世界では重要であるが、本来のストラテジックプランナーが使命感をもつのは購買・契約だけで良いのだろうか。

 思えば、消費者は購買を目指しているのではない。購買はむしろ早く終わらせたいと思っている場合もしばしばではないか。例えば、エアポッズを買ったとき。買うのは一瞬。ネットでさっと調べて、みんな使ってるしで即決。ただ、その後、買った後にエアポッズ、アップルに思いを馳せることは数万回ある。

 2000年代に入ってから、アカデミック界で話題になっているサービス・ドミナント・ロジック、サービス・ロジックという概念を紹介し、ストラテジックプランナーの新たな戦場についての論考に繋げる。

 

  1. サービス・ドミナントロジック

 北米の学者がうんだ、ビジネスを考える上でのレンズ。

世の中のビジネスをスキル・ナレッジを使うという意味でのサービスを顧客と企業が交換しながら価値を共創していると捉えるレンズ・ものの見方である。具体的には、自動車ビジネスを「自動車とお金の交換」と見るのではなく、「安心安全な自動車を製造し、流通させ、知らしめて、購買してもらい、使ってもらうためのサポートを提供する企業のナレッジと、自動車を購入する貨幣を稼ぎ、自動車を運転するための試験に受かり、交通ルールを守って運転して、ドライブを楽しむ消費者のナレッジの交換」と見る。つまり、グッズを交換しているのではなく、プロセスを交換していると見ることができるレンズである。いささか難解に感じるかもしれないが、サービス・ドミナント・ロジックの実務的な示唆としては、マーケティングの重心を、交換価値(企業が決めるもの)から文脈価値(生活者が決めるもの)に移す考え方を提供したことがあげられる。

 具体的には、自動車に200万円を支払ったとしても、交換時点では価値は発生してない。ドライブすることを通じて、消費者が感じた価値(使用価値)こそがマーケティングが重要視するポイントとして捉えることの重要性を提起している。

 

  1. サービス・ロジック

北欧のノルディック学派が体系化した、マーケティングロジックである。

 サービス・マーケティング研究をベースにしつつ、マーケティングとはトランザクションではなくインタラクションを目指すことで、消費者にとっての使用価値を促進することであるというロジック。具体的には、自動車を交換する時点=取引を目指すのではなく、自動車購入時の情報伝達、カーナビの販売、事故修理サポートと行った一連の顧客とのインタラクションを通して顧客の使用価値を実現するプロセスであると捉えるということである。このサービスロジックは、マーケティング実務界に、マーケティングを考える際に、購買をゴールではなく、消費プロセスに入り込んだマーケティングを考えるために示唆を与えている。

 

  1. 広告会社の戦略プランナーの新たな戦場:「消費プロセスでのマーケティング戦略

 これら二つの学問領域でのロジックから、広告会社の戦略プランナーの戦場を広げるための重要な示唆を与えてくれる。

 それは、「目指すのは交換価値ではなく使用価値」「そのために必要なのはトランザクション志向ではなくインタラクション志向」そして「消費プロセスに入り込んで顧客の使用価値をイネーブルする存在になること」という戦い方である。

 思えば、今までのいわゆる「広告」は価値の提示しかすることはできない。バナー広告を見ることは交換には繋がるが使用価値には繋がらない。むしろ使用価値に繋がるのは購入したあとの綿密なサポート、ツール、製品の提供にある。(トライアングル)そして上記のことは全て消費プロセスで行われる顧客とのインタラクションである。

 つまり、これからの戦略プランナーは購買後の消費プロセスでのマーケティング活動の戦略を練るという戦場に踏み出すべきなのである。先程のAirPodsの例で考えると、そこには多くの価値が死蔵されているように思う。(買ったら放置、釣った魚に餌を挙げない。)

 なのに、今までは、買った後にどのような価値が生まれているのかについてはブラックボックス化している現状がある。ストラテジックプランナーは交換を目的に戦略を作り、その後消費者がどのように使用価値を感じているのか / 感じていないのかについては無関心だったのではないだろうか。

労働移動支援助成金の問題と課題

 

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序論

 本記事の目的は、近年その予算を増加している労働移動支援助成金が必要とされている理由・問題点・将来に向けた課題を明らかにすることを目的とする。

 今野(2012)などに指摘されるように、現代の日本社会には、低賃金で過労死寸前まで長時間労働させる・自己都合退職を強要するなどの「ブラック企業」が蔓延している。そして、若者はブラック企業であっても、転職のリスクを恐れてなかなか辞職することができない。その結果、過労死や自殺といった社会問題を生んでいる。しかし、今野(2012)は、すべての日本企業がブラック企業になる可能性があると指摘している(p.186)。つまり、意図的に「ブラック」たろうとする企業よりも、知らずのうちに「ブラック企業」化してしまう企業があるということだ。

 そこで、本記事は労働移動支援助成金が、知らずのうちに「ブラック企業」になってしまった企業と、そこで苦しむ労働者への有効な対策になるのかを検討する。まずはじめに、労働移動支援助成金が必要とされる理由について述べる。次に、労働移動支援助成金の問題点を指摘する。そして最後に、労働移動支援助成金の将来に向けた課題を提示する。

 


本論

労働移動支援助成金が必要とされる理由

 日本企業は元来、終身雇用制度・年功序列賃金と引き換えに、労働者に対して強力な指揮命令権を持っていた(今野,2012)。しかし、バブル崩壊リーマンショックなどの金融危機を経て、日本企業はもはや終身雇用・年功序列賃金を維持するほどの体力を有していない。それにもかかわらず、日本企業は労働者に対して、未だに強い指揮命令権を持っている。このギャップが、知らず知らずのうちに、「ブラック企業」を生み出している。

 このように、意図せず「ブラック企業」になった企業で働く労働者にはどのような選択肢があるだろうか。その一つに転職という可能性がある。しかしながら、今城・中村・須東・藤村・今野(2014)によると、転職回数が0回の人は転職意向が低く、転職回数が3回以上の人は転職意向が高い。つまり、ブラック企業に勤めている労働者のうち、転職したことの無い人は転職しようとさえ思わないという問題が存在している。そして、総務省統計局の労働力調査によると、平成26年度の就業者のうち前職のある者で、過去1年間に離職を経験した者(転職者比率)は4.6%にとどまっている。つまり、日本の労働者は転職を経験した者の数は多いとは言えず、転職をしたことが無い者はそもそも転職しようとさえ思わないという現状にある。

 このような現状に対処するために、政府は「雇用維持型から労働移動支援型への転換」を具体策として掲げている(首相官邸,「新たな成長戦略 ~「日本再興戦略-JAPAN is BACK-」~日本産業再興プラン」)。より具体的には、助成金について、雇用調整助成金(2012年度実績額:約1134億円)から労働移動支援助成金(2012年度実績額:約2.4億円)に大胆に資金をシフトさせ、2015年度までに、双方の予算規模を逆転させるようだ(みずほ総研,2013)。

 労働移動支援助成金とは、事業規模の縮小等により離職を余儀なくされる労働者等に対する再就職支援を職業紹介事業者に委託したり、求職活動のための休暇を付与する事業主に、助成金が支給される制度である(厚生労働省,「労働移動支援助成金」。つまり、事業主に労働者への再就職支援に対する、インセンティブ助成金という形で与えることで、転職を活発化させようとする政策である。意図せず「ブラック」化した企業が、この制度によって再就職支援を労働者に提供し、助成金をもらうことで、労働者は苦しまずに転職することができる可能性がある。もとより、意図的に「ブラック」化したわけではない企業については、この制度により、自己都合退職の強要を行う代わりに、助成金をもらって労働者とウィンウィンの関係を築くことができる。

 


労働移動支援助成金の問題点

 以上のように、意図せず「ブラック」化してしまった企業にとって、労働移動支援助成金は、労働者の転職を支援するインセンティブになるという利点はある。しかしながら、この助成金には1つ大きな問題が存在している。

 それは、企業が助成金を得るための、再就職支援をする労働者が、「事業規模の縮小等に伴う、1整理解雇、2希望退職応募、 3勧奨退職、43年以上雇用され更新を希望したにも関わらず期間満了雇止めによって離職する、常用労働者」に限られているという点だ。

 この条件の持つ問題の一つ目は、「事業規模の縮小に伴う」という条件だ。なぜならば、「ブラック企業」は事業が拡大しているにもかかわらず、解雇を行おうとする場合が多いからだ。つまり、事業拡大の局面で人員をコンパクトにしようとする場合にこの助成金は給付されない。そのため、意図せず「ブラック」化した日本企業はこの助成金を利用することができず、結果として労働者の苦しみにもつながってします。

 そして条件の2つめの問題は、常用労働者に限られている点だ。「ブラック企業」は事業拡大局面で、できるだけコストの少ない非正規雇用契約社員を雇う場合が多い。そして、そのような労働者が長時間・低賃金・退職強要などのパワーハラスメントの対象になりやすい。したがって、この助成金が給付されるからと言って、非正規雇用契約社員の転職は活性化しない。

 


労働移送支援助成金の将来に向けた課題

 では、労働移動支援助成金について、今後どのように政策的な改革を行っていくべきなのだろうか。この問いへの答えは、2つの問題点に即して考えることができる。

 まず、労働市場規制緩和の局面にあっては、事業拡大局面にあっても、再就職支援をすることを条件に助成金を交付するべきである。それによって、現職に不満を持つ労働者は転職しやすくなり、事業主も拡大局面の人員調整を行うことへの規制が減ることになる。

 また、条件として常用労働者だけでなく、非正規雇用契約社員にも対象者を広げるべきである。現在、非正規雇用契約社員には、常用労働者と変わらない働き方をしているものが多い。したがって、健全な転職市場が存在している場合は、買い手も少なくないはずである。それならば、再就職支援をすることは無駄にはならず、むしろ労働者にとってもチャンスとなり、事業主にとっても助成金を得るインセンティブになるだろう。

 


結論

 本記事は、労働移動支援助成金の必要性を意図していない「ブラック企業」という観点から明らかにした上で、その再就職支援を行う事業主・支援対象者の条件に問題があることを指摘した。その上で、その問題点を解決するために、事業主・対象者ともに条件を拡大することが課題であることを指摘した。

 しかしながら、本記事は転職を活性化させる政策について、事業主への助成金という間接的なものしか取り上げていない。今後は、転職希望者にどのような社会政策が必要であるのかを明らかにする必要がある。

 

 

参考資料

 


厚生労働省「労働移動支援助成金

http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/kyufukin/roudou_idou.html 2017年1月30日閲覧

 


今城 志保・中村 天江・須東 朋広・藤村 直子・今野 浩一郎「中高年ホワイトカラーの転職の実態と課題」『経営行動科学』27:2,137-157

 


今野晴貴(2012)『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』文春新書

 


首相官邸「新たな成長戦略 ~「日本再興戦略-JAPAN is BACK-」~ 日本産業再興プラン」http://www.kantei.go.jp/jp/headline/seicho_senryaku2013_plan1.html

2017年1月30日閲覧

 


総務省統計局平成26年度労働力調査

http://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/nen/dt/pdf/ndtindex.pdf

2017年1月28日閲覧

 


みずほ総研(2013)「―再興戦略にみる雇用政策の転換の意味―ミドル層の労働移動」http://www.mizuho-ir.co.jp/publication/column/2013/0806.html2017年1月28日閲覧

読書の感想:『メコン河開発-21世紀の開発援助』

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「知識生産」とは、国際機関によって、民間・公的企業・投資家・機関や、市民、政府が、国を超えて複雑に組織化され、「経済性」へ方向付けられ、開発計画についての一連の情報が構築されることを意味する。「知識生産」の過程では、組織化された各々のアクターは「経済性」を基準に、自発的に情報を収集・分析・評価するようになる。

 以上の定義をふまえ、ナム・トゥン・第2ダムにおける住民へのコンサルテーション(松本1997,pp.121-126)を「知識生産」という観点から分析する。A村の事例では、村人は、焼き畑をやめ、適切な米作や職業を学びたいと述べている。また、開発グループのブントン氏は、森林監視員の募集、養魚の研修などの職業代替案を示した。B村の事例では、開発側の人間が、仕事に熱意のある人には、財政的・技術的支援、移転に伴う住居の補償などを提案している。以上からは、村民を「近代化」し、現代社会において「経済」に寄与するアクターへと変化させていく「知識」が生産されていることがわかる。もちろん、このコンサルテーションのプロセスでは、各アクターの利害関係によって、プロジェクトの推進に不利な情報は無視され、プロジェクトを押し進めるデータが利用され、「経済性」が前提で話しが進められている。このように、開発計画によって、「近代化」「経済的合理化」のための知識が、各アクター同士のつながりの中で生産される。世界銀行は「情報公開と住民意見の反映」という目的でコンサルテーションを提案したにすぎない。それでも、各アクターは自発的に「近代化」「経済化」のための開発と向かっていくのである。

 松本(1997)では、すべての開発が経済=金という観点から推進されていると述べられている(p.167)。その上で、開発とは「人々や社会が持っている力を引き出すこと(p.168)」であるべきだとしている。しかし、上で述べたように、現代のような資本主義社会では、もはや「近代化」・「経済合理化」(つまり資本ベース)ではない開発を考えることは有効ではないだろう。つまり、開発を経済=金ではなく、人間や社会の力を引き出す開発という考え方にいたるのは難しい。なぜなら、すべてのアクターは、資本を増やすために動かざるをえないからである。しかし、だからといって資本主義社会を終わらせるなどという極論を述べても意味がない。これからの開発には、環境や社会へ負の影響を及ぼすような開発に我々が批判的なまなざしをむけ、そうすることで投資家や企業、政府の利益が損なわれるような価値観が必要だろう。つまり、各アクターが利益を得ることは目的でありつつ、「社会や人間の力」を引き出す開発が投資家から注目され、市民から賛同を受け、各アクターの利益につながるという思考枠組みが構築されることが望ましいだろう。

 


 地域研究の意義は、①学問横断的な研究により因果関係を実証すること、②研究から得られた知見により諸学問へのフィードバックを行うこと、の2つに集約できるだろう。

 学問横断的な研究により因果関係を実証すること(意義①)の重要さを示す事例は、中国の漫湾ダムがタイ・チェンセンでのメコン河に影響を与えているのかという議論に良く表れている。上流国である中国のダム建設が、チェンセンにおけるメコン川の水位の減少に及ぼす影響については小雨が原因であると同定された。一方で、魚と堆砂の減少はダムの影響であると判断された。これらは、自然科学からのアプローチである。しかし、メコン川の水位変動や浸食の原因として「国際河川管理についての法律の不在」という考えをすることもできる。この視点から、国際河川利用に関する条約の制定が推進されたのだろう。これは社会科学的なアプローチである。このように、地域研究は地理学・統計学・人類学・法学・政治学・経済学・商学などのあらゆる学問の理論を総動員して、因果関係を実証して行く。これにより、社会現象という原因と結果の関係が複雑な事象においても、より精緻に因果関係を実証することができるだろう。

 次に、学問横断的な研究から得られた知見により諸学問へのフィードバックを行うこと(意義②)についての事例を示す。それはまず、ナムグムダムにおける住民移転の問題である。経済学的にみれば、同じ面積の土地が与えられた場合の各人の利益は変わらない。しかし、もともと森に居住する人と、低地に居住する人では文化や慣習が異なる(文化人類学的視座)。また、その土地の場所・気候によっても大きく利益は変わってくるだろう(地理学・農学的視座)。さらに、パクムン・ダムやトゥンヒンブン・ダムにおいて住民の声が、ダム建設に反映されず、杜撰な環境アセスメントが行われていたことからも経済学的理論への疑問が唱えられる。つまり、経済学的な環境アセスメントの進め方では、アセスメント過程において科学性も民主性も担保されなかったのである。以上2つの事例に見られるように、学問横断的な地域研究は、従来の学問が説明してきた理論や方法を用いることで、その理論や方法の妥当性を問い直すというフィードバックとしての役割がある。

 以上、いくつかの具体的な事例をもとに、地域研究の意義は①学問横断的な研究により因果関係を実証すること②そこから得られた知見により諸学問へのフィードバックを行うこと、の2点に集約されることを論じた。

論考「部活動における呪術と科学」

呪術・科学・宗教・神話 | B. マリノフスキー, 公夫, 宮武, 巌根, 高橋 |本 | 通販 | Amazon

1.はじめに

 


 本記事は、中学校や高等学校での部活動において、精神論的な指導と合理的な指導が、呪術と科学として相互に作用していることを明らかにするものである。まずはじめに、筆者の中高時代の経験をもとに、部活動において、呪術と科学がいかにして実践されているのかを指摘する(第2章)。そして次に、部活動教育における呪術と科学がどのように相互作用をしているのかを明らかにする(第3章)。さらに、部活動教育のにおける呪術と科学の相互作用に伴う問題点を指摘した上で(第4章)、本レポートのまとめと課題を記述し本レポートの終わりにかえる(第5章)。

 


2.部活動教育の呪術と科学

 


 私は、中学校と高校時代に出身県の高校でハンドボール競技をしていた。私の出身高校のハンドボール部は、学校内において規模・練習頻度ともに特に特徴はなかった。また、私の出身高校も私立ではあるが、際立った特徴を持っていない高校であったため、この私個人の経験から導かれる事例は、ある程度一般化可能性があるものである。

 


呪術

 まず、中学校・高等学校において実践される呪術について説明をする。中学校・高等学校において、最も重視されているものは、強い精神・絆・気持ち、といった精神論的なものである。そしてこれは、部活動の練習中にも様々な形で表出する。

 たとえば、部室や試合会場でのチームの荷物を置く場所を、綺麗にしておくことが求められることが多々ある。その際に顧問は、「こういうところを綺麗にしないと、心が乱れて、プレーにも(乱れが)でるぞ!」と叱責していた。これは、「自らのチームが使用する場を綺麗に保つことが、試合で良いプレーをするための手段になる。」という意味であると捉えることができる。もちろん、自チームが使用する場を綺麗に保つ事と、試合で良いプレーができることの間に、科学的な因果関係は存在しない。

 また、顧問がよく口にしていたことに「最後は気持ちだ。気持ちが強いチームが勝つ。」という言葉がある。これは精神論的指導の代表的なものである。これは、「強い気持ちを持つことが、勝利の要因となる。」ということを意味している。しかしながら、こちらにも、強い気持ちが勝利につながるという科学的な因果は同定できない。

 このように、中学校・高等学校において行われる精神論は、勝利・好プレーを発生させる手段として用いられる。しかしながら、そこに「科学的」な因果関係は存在しない。また、場を綺麗にすること・強い気持ちを持つことが、好プレー・勝利につながるということが、必然的・恒常的に起こると考えられているという点はFrazer(1922)の呪術の定義と合致している。また、この点において、これを呪術の一種であると考えることができる。場を綺麗にすること・強い気持ちを持つことによって、好プレー・勝利を得ることができるという考え方は、Malinowski(1974)の呪術の定義に当てはまる。したがって、部活動における精神論の実践は、呪術であるということができる。

 


科学

 部活動において実践される呪術については前述した。しかし、顧問はそれと同時に科学的指導も実践していた。

 たとえば、対戦相手の過去の試合の動画を閲覧し、あるプレーが多い場合は、相手チームが勝利する確率が高いというデータを用いて、自チームが取るべき戦術を決めた。これは、客観的なデータを用いて、自チームが取るべき戦術と勝利の間の因果関係を同定しようと試みる科学であると考えることができる。

 他にも、生徒一人一人の体格とポジションによって、どういう筋力トレーニングをどの程度やるのかを、トレーナーを呼んで詳細に決めていた。これも、適切な筋力トレーニングがベストパフォーマンスの要因になるという、近代科学的な実践である。

 


3.呪術と科学の相互作用

 前章では、部活動において、精神論という呪術と、客観的データを用いる科学の両方の手段が取られていることを指摘した。本章では、その2者の相互作用について検討していく。

 部活動において精神論という呪術が勝利や好プレーのために用いられていることが、どのように科学に作用しているのかについて説明する。まず、チームで使用する場の整理整頓が好プレーに結びつくという呪術を、生徒が実践する。これは、のちに判明したことだが、顧問が強豪高校の顧問から教わったことであった。つまり、強豪高校は整理整頓をしているという因果を、整理整頓をすれば強豪校になれると逆の因果として認識してしまっている。しかし、顧問は整理整頓を徹底させることで、強豪高校の顧問と仲間意識を深め、強豪高校との練習試合に幾度となく呼ばれるようになる。その結果として、自チームが強豪校との実戦を積み重ねることができ、県内での強豪校になる。そうなると、県内での他の高校も私のチームの整理整頓を真似するようになる、という螺旋状の連鎖が始まる。

 このようにして、部活動における精神論は、顧問同士のひと付き合いを活性化させたり、生徒に強豪校との経験を積ませたりすることなどと関係し合うことで、一連の現象が連なって、確からしい結果を生み出していく。現代日本においては、長きにわたって、このような呪術が確からしい結果(強豪校は気持ちが強く整理整頓ができる、という因果の取り違え)を伴って、中心として科学を周辺に追いやっている。

 一方で周辺である科学的指導はどうだろうか。科学的指導は、近年体罰問題や組体操の問題などから勢いを増してきている。つまり、日本国内でなくグローバルなスポーツ勢力図としてみたときに、日本のレベルがほとんどの集団競技において遅れていることに気づいたのだ。日本国内においては、強豪校が精神論を実践しているという証拠だけで、精神論的指導の妥当性が示されてきた。しかし、海外との比較が増えると、もはや精神論的指導がしていないにもかかわらず、日本よりも強いチームが相当数存在するのだ。この認識と現実のギャップを埋めるために、だんだんと、部活動現場でも科学が重視されるようになってきている。

 私の高校でも、前述したように科学的指導を行っていた。部活動において、科学を重視するようになると、顧問はだんだんと礼儀・気持ちの強さと同時に、自分のプレーを客観的に振り返る視点を要求するようになる。そうなると、生徒の心内は、精神論という絶対的なものを信じないといけない気持ちと、客観的・冷静な視点をもつべきだという視点が入り混じるようになる。その結果、「最後は気持ちだ!心を一つに!」という掛け声で試合を始めたかと思えば、ハーフタイムでは「落ち着いて考えよう、何がいけないのか。」と分析をはじめるという奇妙な状態が生まれる。そして、試合後には、「気持ちだけですぎて、熱くなっていた時間帯がいけなかった」とついに精神論を否定するような見解になるときも多々あるのだ。

 このように、部活動の現場においては、中心である呪術はあたかも因果関係のある科学であるように振る舞う。そして、周辺である科学は時として中心である精神論を否定する姿を見せるという相互作用が行われている。

 

4.相互作用に伴う問題点

 近代以降一般的な中心としての科学、周辺としての呪術という構図とは反対に、部活動教育においては、精神論という呪術は、長年の間あたかも科学であるかのように、中心として振舞っていた。

 そしてもちろん、科学である客観的な指導は、精神論という中心に対する周辺として「生徒の本当の成長につながらない教育」というレッテルを貼られることとなった。高校の部活指導において、挨拶・上下関係・気持ちの強さ・礼儀、ということを指導しない学校は、たとえ実力があっても精神論指導が中心である部活動の顧問界隈では「感じが悪い。指導がなってない」というレッテルを貼られる。その結果、練習試合に呼ばれなくなったり、顧問同士の技術的なアドバイスを交換の輪に入れなくなる。また、対戦相手校のビデオ映像や情報の入手がむずかしくなる。そして、その結果チームが客観的なデータ分析によって強くなる機会を失っている。呪術の作用によって、科学としての因果関係も弱まってしまう状態にあるのだ。

 また、科学的指導は、一方で、生徒の客観的データのみの偏重という事態を招く。何が客観的で何が主観的かの理解が及ばない中学生や高校生は、冷静に分析することを顧問に要求されるあまり、冷静に分析することを目的化してしまい、その客観的データを目的である勝利に結びつけることができなくなってしまう場合がある。その結果、データ分析をすると勝利できるという呪術的な使用をしてしまう。

 

5.まとめと課題

 本レポートは、部活動教育において、呪術と科学が実践されていることを指摘した上で、その両者の相互作用と問題点について論じた。部活動は伝統的に、精神論という呪術が中心・データ重視の科学が周辺という、近代の勢力とは反対の構図を持っていた。しかし、その相互によって、あたかも呪術を科学、科学を呪術と取り違えてしまうような構造を持っていた。また、呪術は科学の指導力を弱め、科学は呪術的実践化してしまうという相互作用の問題点も明らかになった。

 本レポートは、自らの体験のみを元に作成されている。しかし、今後は客観的に部活動教育を分析して、呪術と科学の構造と相互作用を明らかにする必要があるだろう。

日本の近代化に伴う「国語」政策についての考察

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1.はじめに

 本ブログは、日本の近代化とともに行われた「国語」政策について評価を行うものである。そのために、まず日本の明治初期から日露戦争前後までの「国語」政策について、その方法と特徴を確認する(第2章)。そしてつぎに、この時期の「国語」政策は近代国民国家の形成のために、どのように寄与したかについての評価を行う(第3章)。最後に、本ブログの要旨をもう一度まとめた上で、本ブログから得られた知見には、どのような意義があるのかということについて論じる(第4章)。なお、本ブログは「国のことば」である国語を、安田(2006)に依拠してカッコつきの「国語」と表記する。つまり、制度や法律と結びつけられた人為的な側面と、伝統・文化・歴史・民族性が後付けられた精神的な側面をもつことばとしての「国語」である(安田2006,p.51)。

 


2.日本の「国語」政策

 

 2-1.歴史的背景

  日本は明治維新期、工業化・資本主義化・植民地経営などにより強大な力を手にした欧米諸国との力の差を感じていた。そして日本は、この時期に多くの欧米の書物や思想、制度や習慣を取り入れようとした。いわゆる文明開化である。日本では、この文明開化とともに、欧米諸国と同等の力を持つために近代化が目指された。欧米列強の仲間入りをするためには、近代国民国家の形成が急がれたのである。近代国民国家においては、均質な国民を形成し、その国民を徹底的に国家に動員することが目指される。

 そのためには、国民の全員が同じことばを書き、同じことばを聞き、同じことばを話す必要がある。そこで必要不可欠であると考えられたのは「国語」の制定である。しかし、そもそも日本のことばは、書きことばと話しことばは全く違っていた。書きことばは漢文調で表記され、一部の特権的な階級にいる人しか理解できないようなものであった。また、書きことばは漢文調であるがために、そのまま話した場合、コミュニケーションは難しいという状況であった。また、話しことばについても、地域や階層によってさまざまに異なっており、とても「均質な」国民国家を形成できる状態ではなかった。そこで、近代国民国家のために、聞いても、書いてもわかることばとしての「国語」の制定が求められた。言文一致の動きである。

 

 2-2.「国語」政策の歴史

  今まで確認してきたように、日本は近代国民国家形成のために、書いても、聞いてもわかる「国語」が必要とされた。しかし、「国語」を制定しようと言ってもそれは簡単なことではない。地域や階層による多様性や、様々な政策上の論争などの問題をはらんでいたからである。

 明治初期の言語論においては、書きことばが重視された「上から」の啓蒙的な表記論にとどまっていた。ここでは、何を伝えるのかが重視され、どのように伝えるかということはあまり重視されず、実践的でない理論であった(安田2006,p.37)。しかしながら、何度も述べているように、近代国民国家のためには、聞いてもわかる、話してもわかる「国語」が必要である。「国語」によって国民を統合し、「日本国民」としてのアイデンティティを持たせ、「国語」によって、実際の制度を運用し、ニュースを届け、兵士に指示を出さなければならない。この観点から見ると、明治初期は、「国語」の統一の必要性は説かれたが、具体的な「国語」構築作業はあまり見られなかったといえる。

 しかし、明治後半になると、近代国民国家のためのさまざまな制度が実際に整備されていく。その中で、いうまでもなく「国語」の早期の制定が熱望された。このような実践的な整備のなかで(実践的な整備をしようとしたからこそ)、ある問題が浮かび上がった。「国語国字問題」である。つまり、どういったことばを「国語」とし、そのことばをどう表記していくか、という問題である。上田万年(1867~1937)は「国語」の制定に大きく寄与した国語学者である。上田は、ヨーロッパに語学研究にいった後に、ヨーロッパ言語学に影響を受け、漢文訓読体・漢文への批判的な議論をおこなった。つまり、話して、聞いて、わかりやすいことばを求め、「国語国字問題」を解消しようとしたのだ。しかし、秩父事件などを契機として、国粋主義が高まり、従来のことばの保存が望まれるなど、なかなか「国語国字問題」は解決されなかった。

 そもそも、「国語」を制定するために、「国語」政策として、「標準語」を上から教育するだけでは、抑圧的な印象をもたれてしまう。このような状況では、「国語」は本当の意味で国民のものにならない。そこで、「国語」に歴史的連続性を付与することで、国民の一体感を作り出し、抑圧的な印象を解消しようとした。つまり、国の歴史とともに、そこには常にことばがあったことを説いたのだ。本来、日本のある地域史は、「ある地域」の歴史でしかない(安田2006,p.49)。それなのに、その「ある地域史」をあたかも明治政府へと脈々と続く、日本の歴史とすることで、ことばの連続性を主張し、歴史と伝統を共有する、「国語」という後づけをおこなった。

 このようにして、実務的な国家の制度を担い、また、歴史的に脈々とつながって話されてきたという国民統合の役割も同時に担った、時間と空間をともにした「国語」を完成させようとしたのだ。

 また、1900年前後に日清戦争日露戦争という近代的な国民国家としての2つの戦争がおこった。これらの戦争は、日本国民のナショナリズムを高揚させる絶好の機会であった。中国やロシアという「外」を意識させることで、日本国民という「内」のつながりはより密になっていく。そのような、ナショナリズムの高揚に助けられ、教科書の表記、どの語彙を標準とするか、漢字をどの程度制限するか、かなづかいをどうするか、などの点がより具体的に検討されていった。

 


3.日本の「国語」政策への評価

 前章では、日本の「国語」政策の黎明期の歴史を追ってきた。それは、近代国民国家の形成のために必要不可欠であり、各種の制度と結びつけられた実務的な側面と、ナショナリズムや民族性、歴史、伝統と結びつけられた精神的な側面を持っていた。これらの点を踏まえて、本章ではこの時期の「国語」政策はどのように評価することができるのかについて検討をしていく。ここでいう評価とは「道徳的または人道的」に良いか悪いか、ということではなく、「ことばを統一するために」有効だったかどうかということについての評価である。

 


 3-1実務的側面の評価

 まずはじめに、「国語」を実務的な制度と結びつけて普及させていこうとした点について論じる。日本は、「国語」を国の諸制度と結びつけて制定していくことによって、ある種の「強制」または「インセンティブ」を人々に与えたと評価することができる。それまでの武士社会では、国の決定に携わるものは一部の特権階級だけであり、それ以外の人が漢文を書け、読めたとしてもあまり利益はなかったであろうし、その逆に使えないからといって圧倒的に他の人と比べて不利になることもなかっただろう。しかし、近代国民国家は、一応は「法の下の平等」ということが要件である。国民は政治に参加することができ、種々の制度の恩恵にあずかる権利をもつ。そのような状況では、制度と結びついた「国語」を学習しておかないと不利になってしまう。これがある種の「国語」の「強制」である。また、「国語」を流暢に操ることができることで、社会的地位を高めることができる可能性がある。つまり、現在の日本で言う「英語」と同じように、それが流暢に扱えれば社会的に成功する可能性を高くすることができただろう(少なくともそう信じられている)。このような「インセンティブ」を与えることで、「国語」の学習は拒否できなくなり、「自発的」に学習する人も現れたのである。

 


 3-2精神的側面の評価

 つぎに、「国語」を精神的な側面と結びつけたことについての評価について論じる。日本は、「均質な」日本国民を統合し、動員することを目指して、歴史的なつながり、美しさ、礼節、純血性などの様々な精神的な概念と「国語」を結びつけて普及を目指した。さらに、日清戦争日露戦争という二度の戦争を、ナショナリズム高揚と「国語」の統一の機会として利用し、日本国民の単一性と「国語」のつながりをより強固にしようとした。この点については、「国語」の普及を強く推進するものであると評価することができる。なぜならば、ことばには単なる情報伝達機能だけでなく、同族意識を表す機能も備わっているからである(P.ドラッドギル,1975,p.89)。日本の国民は、戦争により「日本」を強く意識し、「国語」という「歴史的」にも「伝統的」にも脈々受け継がれてきた、「美しい」ことばを使用することで、「日本民族」としての同族意識を強く感じただろう。このように、単に実生活上の必要だけでなく、精神的な正確も与えることで「国語」は人々のこころに深く浸透したのだ(違和感を覚えた人もいただろうが、そういう人も、前節に述べた強制による学習せざるをえない)。また、この同族意識を芽生えさせることで、方言への自浄作用もある程度働いたと考えることができる。

 


4.これからの「国語」政策

 以上、明治時代の近代国民国家形成のための「国語」政策について、その歴史と評価できる点について論じてきた。ここで、一つ留意しておきたいのは、当時の「国語」政策はきわめて多くの問題点を有しているということである。つまり、まずもって、地域的、階層的な様々な変種の話者を無視した上からの「暴力的な」政策である。「国語」としての「標準語」以外の変種はあたかも劣っているかの用に扱うということは、現在の言語学では否定されている(P.ドラッドギル1975,p.10)。しかし、当時は、「国語」としての「標準語」以外の地域や階層による変種は、劣っていて改善すべき物であるとの指導がなされたのだ。

このほかにも、植民地への「国語」政策における強制など、問題点を挙げれば枚挙にいとまがないし、多くの書籍により論じられている。そこで、本論文ではあえて、問題点ではなく、「有効性」という面から「国語」政策の評価を試みた。

 その結果、「実務的」・「精神的」な「国語」政策は、国民の「国語」学習を強制的または自発的に学習させるために、きわめて強い影響を与えていたことが示唆された。本論文から得られた、「国語」政策の影響力についての知見により、今後「国語」政策を行う国において「実務的」かつ「精神的」な政策は、人々に強い影響力をもつということを留意させ、慎重な政策を行うように促すことが期待される。

 

 

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読書の感想:『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む―言葉と語りえぬもの』

 

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この本を読み、私が理解したことはまず大きく分けて二つある。

 


①言語というものについて

②その言語というものが映像とどのようにかかわってくるのか

というこの二つである。

 


①言語というものについて

まず①については、「言語一般および人間の言語について」を参考に理解した点をまとめる。なお参考にしたのは、久保哲司訳「ベンヤミン・コレクション」の中の当該箇所である。さて、そもそも普段「言語」と聞くとおそらく大半の人が「人間が発している言葉」を想定するのではないだろうか。私も、この映像文化論のシラバスを読んだときそのように思っていた。そうであるから、「言語一般および人間の言語について」という題を見たときには「人間以外が言語を持ち得るのだろうか。」といささか違和感を覚えていた。しかしこの違和感はこの論考を読んでいくにあたって次第になくなっていった。ベンヤミンによると常に言語を内在させている人間の精神生活に限らず、一切のもの(命あるもの、ないものに限らず)は言語として捉えるができるというのだ。つまり、何らかの形で言語に関与していない出来事や事物は存在しないということである。このことの理由としてベンヤミンは「というのも自らの精神的内容を伝達することはすべてのものにとって不可欠だからである。」と続けている。確かに、後に述べられているように、自らがどういうものであるのかということを表現しない様なものを私たち人間は何一つ思い浮かべることができない、ということからも言語があらゆる事象に関わっているということの真実性が十分にわかる。そして次は、精神的本質と言語的本質についてである。言語は精神的本質を伝達するものであるが、ベンヤミンはその言語について「精神的本質は自己を言語によって(を手段として)伝達するのではなく言語において(を媒質として)自らを伝達するのである」と論じている。この「~を媒質として」ということについて細見和之氏の著作である「ベンヤミン『言語一般および人間の言語について』を読む」に書かれている。同書には「『~を媒質として』というのは『~という姿で』と訳すほうが明瞭に意味を取れる」と書かれており私自身も非常に納得したのでこの表現を使わせてもらう。そして、これは重要なことであるが、精神的本質は、伝達可能な限りにおいてのみ、言語的本質と同一であるということだ。細野氏の解説を参考に具体的な例でいうと、ある楽曲の精神的本質(事物や出来事がいかなるものであるか)は、スピーカーから出る音という形で伝達可能になった限りにおいてのみ、言語的本質(音という言語の形で現れているもの)と同一であるということである。そしてその言語的本質が最も正確に表れているのがその事物の言語であるという。では人間においては人間の言語的本質のもっとも正確な現れというのは人間の言語ということになるが、人間の言語はすなわち言葉である。ここで「人間の言語」ということについて考えてみる。人間は日常の中であらゆる物事の精神的本質を名づけることによって伝達している。例えば「赤い服を着た人」などは、「赤」と名付けられた色、「服」と名付けられたものを身にまとい、「着る」と名付けられた行為をしている、「人」と名付けられた生き物である、という風に。したがって、人間はあらゆる事物の精神的本質を(それが人間の言語、すなわち名づけるということにおいて伝達可能な限りにおいて)伝達するのである。人間の言語的本質とは「事物を名づけること」をいうのだ。では、人間は誰に自己の精神的本質を伝達するのか。あらゆる事物はそれぞれの言語という姿で、自己を人間に伝達するが、ベンヤミンによると、人間はあらゆる事物を名づけることにおいて自己を神に伝達するという。この「神」についての理解の仕方について細野氏の解説書に興味深い記述がなされている。ベンヤミンはこの「神」というものを、ユダヤ教キリスト教などの人格神、救世主などと捉えていたという風には思えず、人間を超える「絶対的なもの」としてとらえているのだという。そしてここで一つ注意しなければならないことは、人間は言語(名づける)という姿において、自己の精神的本質を神に伝達するのである。人間が、言語(名づける)という手段で、ある事柄を、ほかの人間に伝達しているわけではないということだ。もし、人間Aが、言語を手段として、ある事柄を、ほかの人間Bに伝達するのであるならば、人間Aの精神的本質はその言語に何一つとして反映されていない。そして、これは事柄と言語の関係についても同じことが言える。ある事柄の言語というのは、人間の言語(言葉、名称言語)とは違うものである。もちろんこの場合、事柄の精神的本質は言語には反映されておらず、事柄の言語というものの存在が無視され、事柄は人間の言葉というもので伝達する対象としか見られていない。しかし、実際にはある事柄も自らの言語という姿において自己を伝達しているのだ。先にも述べたように、ベンヤミンによると、精神的本質を伝達しないものを我々は何一として思い浮かべることはできない。したがって、この言語観は浅はかな、直観による、勝手なものの見方でしかないのである。そしてこの手段としての考え方をベンヤミンは「的言語観」として批判的にみている。以上のことが授業で理解した「言語」についての記述である。

 


②その言語というものが映像とどのようにかかわってくるのか

 次にそれが映像とどのようにかかわってくるかということについて記述したい。先に述べたように、映像も自己自身の精神的本質を、映像の言語という姿において伝達している。この場合、映像は自己の精神的本質を人間に伝達する。では、映像の言語とはそもそもなんであるのか。私はその映像の言語というものは、映像にみられる動的な画像-動画-、付随する音、のみならず映像が流される部屋の雰囲気(照明の明るさや、観衆のどよめき)などにまで表れていると考える。これは、「言語一般および人間の言語について」のなかでの「司法の言語」というものへの細野氏の解釈を受けてのものである。細野氏は「司法の言語」というものを、裁判官の咳払い、傍聴者の一挙一動、裁判所の雰囲気、などとしてとらえた。映像とは、ただの動く画像の時間的な連なりではないのである。それでは映像の精神的本質とはなんであるのか。もちろんこれは、どういう映像なのかによって違うことである。例えば、テレビから流れるニュース映像においては、ニュースキャスターのフォーマルな服装、スタジオのあわただしい雰囲気、キャスターの口調、使われるBGMなどの「ニュース映像の言語」のよって、それが「ニュース映像である」という精神的本質を伝達しているのだ。そしてその場合、もちろんニュース内容を読み上げる何らかの人間の言葉(日本語や中国語、英語など)、テレビから流れる音声、キャスターが原稿を読み上げる動画、というように伝達可能な限りにおいてニュース映像の精神的本質を伝達するのだ。そしてこの場合、ニュースなどでは特にわかりやすいが、ある映像の作成者が、映像というものを手段として、ある事柄(ニュース)を、視聴者の人間に伝達するという解釈は明らかな市民的言語観である。この言語観においては、映像の作成者の精神的本質はニュース映像について何一つ反映されていないということになる。また、ニュースで取り上げられる事柄が自らの言語という姿において伝える精神的本質も考慮されていない。ベンヤミンの考えに従うならば、映像の作成者である人間は、ある事柄(ニュース)を映像という姿において、自己を伝達可能なものにしているとなる。その場合作成者が伝達する対象は「ある絶対的なもの」であり、それをニュース映像というものを通してテレビ越しに視聴する我々人間が、ニュース映像の伝達する精神的本質(動画、音声などによって伝達可能である限りにおいて)を受け取っているだけなのである。細野氏の言葉を借りるならば、映像においても、「水平的」な伝達(人間Aが事柄Bを映像という手段で人間Bに伝達する)が行われるのではなく「垂直的」な伝達(人間Aは神に自己を伝達、映像の精神的本質を視聴者が受け取る)が行われるのである。

読書の感想:『青年・渋沢栄一の欧州体験』

 

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私はこの著作を読んで次の二つのことを考えた。渋沢はなぜここまでの超人的な

業績を収めることができたのかという事と、我々はその生き方から何を学ぶことができるのかという事である。

 


渋沢はなぜここまでの超人的な業績を収めることができたのか

まず始めに何故彼はここまでの成功をすることができたのかについて論じる。私がこの著書を読んでまず始めに感じた成功の要因は渋沢が「運に恵まれていた」という事である。確かに彼は、著書にもあるように、「地方有数の豪農」であり「貸金業もしていたほどの資産家」である親の元にうまれ、尾高藍香のもとで勉学に励むこともできた「運に恵まれた」生まれであった。更には、激動の時代に貴重な経験を積むこともでき、豊かで素晴らしい出会いにも恵まれていた。しかしただ単に「幸運だった」というと、「自分には無理だから関係ない」と絶望する人もいるかもしれないが、私は決して絶望することなく次のような考え方に至った。「運も実力の内」と言われるように彼自身の性質に運を手繰り寄せるような要因があったに違いないという事である。まさに彼の性質が「人というものは不意に僥倖が来るものである」と彼に言わしめる鍵であったのだ。では、その性質はどのようなものであったのであろうか。一つには彼の純粋さ、素直さである。幕府に対して不信感を抱いていたのに関わらず、図らずも平岡や慶喜の器の大きさ、寛大な人間性に触れて、一橋家に士官し貴重な経験を積んだ。また、若き日に「攘夷」を叫んでいたが、欧州への洋行においては積極的に、また柔軟性をもって欧州の文化、産業、政治、経済などのあらゆる面において詳細な観察や分析をして、日本に還元しようとしたのである。この素直さ、純粋さがまず重要である。二つ目にはぶれない価値基準を持っていたという点である。渋沢は、自分の確固たる価値基準をもち、その価値基準に合うならば、「敵」と思っていた幕府や欧州から積極的に知識を得て、日本に生かそうとした。また価値基準に合わないならば、フランスでのヴィレットとの「決闘騒ぎ」や、「大蔵省での大久保との論争」などに見られるように、命を刺し違えてでも、職を賭してでも自分の意見を曲げようとはしなかった。この確固たる価値基準もまた一つの幸運をつかむ要因であった。そして最後は、やはり彼の生涯を貫くことでもあるが、公益を重んじ、モラルを大切にする人格である。欧州からどのようなことを学ぼうと、それを民衆の生活に根差して還元をしようと試み、経営者になってからも公共事業に積極的に貢献する姿はまさに人格者とよぶべきである。思えば彼の問題意識は「身分制度」や「官尊民卑」の打倒にはじまり、欧州への遠征を経てもその問題意識は揺らぐことなく彼の生涯に生き続けてきたと思う。その証が、彼の貢献した様々な公共事業や民間事業に表れている。この人格が最後に挙げる要因である。

 


我々はその生き方から何を学ぶことができるのか

では、我々はこの生き方から何を学ぶことができるだろうか。まず注目したいのが、著書の81ページに記してあるように「仙人でもなく、俗人でもない」生き方が重要であるということだ。泉先生も授業で言及したように常に二つの道を偏りすぎずに生きるという事である。価値基準も伴っての話ではあるが、これにより「討幕派」でありながら一橋家に仕官し、「攘夷派」でありながら洋行についていくという、その間の大道を求める経験豊かな生き方ができたのである。我々は価値基準をしっかりと持ち、偏りすぎないという事で、視野が広く大胆な生き方ができると思う。そして二つ目にはやはり「公益」「モラル」という事を重んじるという事である。現代という、モラル無き市場原理主義によって勝ち負けが生まれ、貧富の差も拡大する時代にあっては、公益を求め「論語的に」生きることが我々若者にとって重要なことなのである。

 


総じて、「公益の重視」と「個人の利益」をトレードオフではなく、両立していたのが渋沢の生き方なのであるが、まさにこれは現代に生きる我々が参考にすべき立ち振る舞いである。例えば、ビジネスマンの生き方にとっても大変参考になる。公益を重視していくだけでは、その会社が存続できない。かと言って、個人の利益だけを追求すると、必ずと言っていいほど世間からの協力を得られなくなるのだ。

 


昨今のベンチャー企業やスタートアップは、この「公益の重視」と「個人の利益」のどちらも、ではなく、どちらかに極端に偏っていることが多いように思う。ある会社は、公益を重視するあまり、株式会社の形式では存続することができず、NPO法人化などをし、結果スケールできず多くの人に益を届けることができない。逆に、急成長する企業は、公益よりも自社収益を重視するあまり、世間からの協力を徐々に得られなくなるのだ。

 


バランスをとっていきたいものである。

 

渋沢は旅好きだったと言われるが、冬の旅に欠かせないのは、湯たんぽである。

おすすめの湯たんぽを貼付する。

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そしてもう一つ、渋沢を無類の酒好きだと評する人もいる。
特に、蒸留酒が好きだったそうだ。是非あなたも蒸留酒を飲みながら、渋沢に思いをはせてはいかがだろうか。

 

 

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