読書の感想:『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む―言葉と語りえぬもの』

 

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この本を読み、私が理解したことはまず大きく分けて二つある。

 


①言語というものについて

②その言語というものが映像とどのようにかかわってくるのか

というこの二つである。

 


①言語というものについて

まず①については、「言語一般および人間の言語について」を参考に理解した点をまとめる。なお参考にしたのは、久保哲司訳「ベンヤミン・コレクション」の中の当該箇所である。さて、そもそも普段「言語」と聞くとおそらく大半の人が「人間が発している言葉」を想定するのではないだろうか。私も、この映像文化論のシラバスを読んだときそのように思っていた。そうであるから、「言語一般および人間の言語について」という題を見たときには「人間以外が言語を持ち得るのだろうか。」といささか違和感を覚えていた。しかしこの違和感はこの論考を読んでいくにあたって次第になくなっていった。ベンヤミンによると常に言語を内在させている人間の精神生活に限らず、一切のもの(命あるもの、ないものに限らず)は言語として捉えるができるというのだ。つまり、何らかの形で言語に関与していない出来事や事物は存在しないということである。このことの理由としてベンヤミンは「というのも自らの精神的内容を伝達することはすべてのものにとって不可欠だからである。」と続けている。確かに、後に述べられているように、自らがどういうものであるのかということを表現しない様なものを私たち人間は何一つ思い浮かべることができない、ということからも言語があらゆる事象に関わっているということの真実性が十分にわかる。そして次は、精神的本質と言語的本質についてである。言語は精神的本質を伝達するものであるが、ベンヤミンはその言語について「精神的本質は自己を言語によって(を手段として)伝達するのではなく言語において(を媒質として)自らを伝達するのである」と論じている。この「~を媒質として」ということについて細見和之氏の著作である「ベンヤミン『言語一般および人間の言語について』を読む」に書かれている。同書には「『~を媒質として』というのは『~という姿で』と訳すほうが明瞭に意味を取れる」と書かれており私自身も非常に納得したのでこの表現を使わせてもらう。そして、これは重要なことであるが、精神的本質は、伝達可能な限りにおいてのみ、言語的本質と同一であるということだ。細野氏の解説を参考に具体的な例でいうと、ある楽曲の精神的本質(事物や出来事がいかなるものであるか)は、スピーカーから出る音という形で伝達可能になった限りにおいてのみ、言語的本質(音という言語の形で現れているもの)と同一であるということである。そしてその言語的本質が最も正確に表れているのがその事物の言語であるという。では人間においては人間の言語的本質のもっとも正確な現れというのは人間の言語ということになるが、人間の言語はすなわち言葉である。ここで「人間の言語」ということについて考えてみる。人間は日常の中であらゆる物事の精神的本質を名づけることによって伝達している。例えば「赤い服を着た人」などは、「赤」と名付けられた色、「服」と名付けられたものを身にまとい、「着る」と名付けられた行為をしている、「人」と名付けられた生き物である、という風に。したがって、人間はあらゆる事物の精神的本質を(それが人間の言語、すなわち名づけるということにおいて伝達可能な限りにおいて)伝達するのである。人間の言語的本質とは「事物を名づけること」をいうのだ。では、人間は誰に自己の精神的本質を伝達するのか。あらゆる事物はそれぞれの言語という姿で、自己を人間に伝達するが、ベンヤミンによると、人間はあらゆる事物を名づけることにおいて自己を神に伝達するという。この「神」についての理解の仕方について細野氏の解説書に興味深い記述がなされている。ベンヤミンはこの「神」というものを、ユダヤ教キリスト教などの人格神、救世主などと捉えていたという風には思えず、人間を超える「絶対的なもの」としてとらえているのだという。そしてここで一つ注意しなければならないことは、人間は言語(名づける)という姿において、自己の精神的本質を神に伝達するのである。人間が、言語(名づける)という手段で、ある事柄を、ほかの人間に伝達しているわけではないということだ。もし、人間Aが、言語を手段として、ある事柄を、ほかの人間Bに伝達するのであるならば、人間Aの精神的本質はその言語に何一つとして反映されていない。そして、これは事柄と言語の関係についても同じことが言える。ある事柄の言語というのは、人間の言語(言葉、名称言語)とは違うものである。もちろんこの場合、事柄の精神的本質は言語には反映されておらず、事柄の言語というものの存在が無視され、事柄は人間の言葉というもので伝達する対象としか見られていない。しかし、実際にはある事柄も自らの言語という姿において自己を伝達しているのだ。先にも述べたように、ベンヤミンによると、精神的本質を伝達しないものを我々は何一として思い浮かべることはできない。したがって、この言語観は浅はかな、直観による、勝手なものの見方でしかないのである。そしてこの手段としての考え方をベンヤミンは「的言語観」として批判的にみている。以上のことが授業で理解した「言語」についての記述である。

 


②その言語というものが映像とどのようにかかわってくるのか

 次にそれが映像とどのようにかかわってくるかということについて記述したい。先に述べたように、映像も自己自身の精神的本質を、映像の言語という姿において伝達している。この場合、映像は自己の精神的本質を人間に伝達する。では、映像の言語とはそもそもなんであるのか。私はその映像の言語というものは、映像にみられる動的な画像-動画-、付随する音、のみならず映像が流される部屋の雰囲気(照明の明るさや、観衆のどよめき)などにまで表れていると考える。これは、「言語一般および人間の言語について」のなかでの「司法の言語」というものへの細野氏の解釈を受けてのものである。細野氏は「司法の言語」というものを、裁判官の咳払い、傍聴者の一挙一動、裁判所の雰囲気、などとしてとらえた。映像とは、ただの動く画像の時間的な連なりではないのである。それでは映像の精神的本質とはなんであるのか。もちろんこれは、どういう映像なのかによって違うことである。例えば、テレビから流れるニュース映像においては、ニュースキャスターのフォーマルな服装、スタジオのあわただしい雰囲気、キャスターの口調、使われるBGMなどの「ニュース映像の言語」のよって、それが「ニュース映像である」という精神的本質を伝達しているのだ。そしてその場合、もちろんニュース内容を読み上げる何らかの人間の言葉(日本語や中国語、英語など)、テレビから流れる音声、キャスターが原稿を読み上げる動画、というように伝達可能な限りにおいてニュース映像の精神的本質を伝達するのだ。そしてこの場合、ニュースなどでは特にわかりやすいが、ある映像の作成者が、映像というものを手段として、ある事柄(ニュース)を、視聴者の人間に伝達するという解釈は明らかな市民的言語観である。この言語観においては、映像の作成者の精神的本質はニュース映像について何一つ反映されていないということになる。また、ニュースで取り上げられる事柄が自らの言語という姿において伝える精神的本質も考慮されていない。ベンヤミンの考えに従うならば、映像の作成者である人間は、ある事柄(ニュース)を映像という姿において、自己を伝達可能なものにしているとなる。その場合作成者が伝達する対象は「ある絶対的なもの」であり、それをニュース映像というものを通してテレビ越しに視聴する我々人間が、ニュース映像の伝達する精神的本質(動画、音声などによって伝達可能である限りにおいて)を受け取っているだけなのである。細野氏の言葉を借りるならば、映像においても、「水平的」な伝達(人間Aが事柄Bを映像という手段で人間Bに伝達する)が行われるのではなく「垂直的」な伝達(人間Aは神に自己を伝達、映像の精神的本質を視聴者が受け取る)が行われるのである。