論考「部活動における呪術と科学」

呪術・科学・宗教・神話 | B. マリノフスキー, 公夫, 宮武, 巌根, 高橋 |本 | 通販 | Amazon

1.はじめに

 


 本記事は、中学校や高等学校での部活動において、精神論的な指導と合理的な指導が、呪術と科学として相互に作用していることを明らかにするものである。まずはじめに、筆者の中高時代の経験をもとに、部活動において、呪術と科学がいかにして実践されているのかを指摘する(第2章)。そして次に、部活動教育における呪術と科学がどのように相互作用をしているのかを明らかにする(第3章)。さらに、部活動教育のにおける呪術と科学の相互作用に伴う問題点を指摘した上で(第4章)、本レポートのまとめと課題を記述し本レポートの終わりにかえる(第5章)。

 


2.部活動教育の呪術と科学

 


 私は、中学校と高校時代に出身県の高校でハンドボール競技をしていた。私の出身高校のハンドボール部は、学校内において規模・練習頻度ともに特に特徴はなかった。また、私の出身高校も私立ではあるが、際立った特徴を持っていない高校であったため、この私個人の経験から導かれる事例は、ある程度一般化可能性があるものである。

 


呪術

 まず、中学校・高等学校において実践される呪術について説明をする。中学校・高等学校において、最も重視されているものは、強い精神・絆・気持ち、といった精神論的なものである。そしてこれは、部活動の練習中にも様々な形で表出する。

 たとえば、部室や試合会場でのチームの荷物を置く場所を、綺麗にしておくことが求められることが多々ある。その際に顧問は、「こういうところを綺麗にしないと、心が乱れて、プレーにも(乱れが)でるぞ!」と叱責していた。これは、「自らのチームが使用する場を綺麗に保つことが、試合で良いプレーをするための手段になる。」という意味であると捉えることができる。もちろん、自チームが使用する場を綺麗に保つ事と、試合で良いプレーができることの間に、科学的な因果関係は存在しない。

 また、顧問がよく口にしていたことに「最後は気持ちだ。気持ちが強いチームが勝つ。」という言葉がある。これは精神論的指導の代表的なものである。これは、「強い気持ちを持つことが、勝利の要因となる。」ということを意味している。しかしながら、こちらにも、強い気持ちが勝利につながるという科学的な因果は同定できない。

 このように、中学校・高等学校において行われる精神論は、勝利・好プレーを発生させる手段として用いられる。しかしながら、そこに「科学的」な因果関係は存在しない。また、場を綺麗にすること・強い気持ちを持つことが、好プレー・勝利につながるということが、必然的・恒常的に起こると考えられているという点はFrazer(1922)の呪術の定義と合致している。また、この点において、これを呪術の一種であると考えることができる。場を綺麗にすること・強い気持ちを持つことによって、好プレー・勝利を得ることができるという考え方は、Malinowski(1974)の呪術の定義に当てはまる。したがって、部活動における精神論の実践は、呪術であるということができる。

 


科学

 部活動において実践される呪術については前述した。しかし、顧問はそれと同時に科学的指導も実践していた。

 たとえば、対戦相手の過去の試合の動画を閲覧し、あるプレーが多い場合は、相手チームが勝利する確率が高いというデータを用いて、自チームが取るべき戦術を決めた。これは、客観的なデータを用いて、自チームが取るべき戦術と勝利の間の因果関係を同定しようと試みる科学であると考えることができる。

 他にも、生徒一人一人の体格とポジションによって、どういう筋力トレーニングをどの程度やるのかを、トレーナーを呼んで詳細に決めていた。これも、適切な筋力トレーニングがベストパフォーマンスの要因になるという、近代科学的な実践である。

 


3.呪術と科学の相互作用

 前章では、部活動において、精神論という呪術と、客観的データを用いる科学の両方の手段が取られていることを指摘した。本章では、その2者の相互作用について検討していく。

 部活動において精神論という呪術が勝利や好プレーのために用いられていることが、どのように科学に作用しているのかについて説明する。まず、チームで使用する場の整理整頓が好プレーに結びつくという呪術を、生徒が実践する。これは、のちに判明したことだが、顧問が強豪高校の顧問から教わったことであった。つまり、強豪高校は整理整頓をしているという因果を、整理整頓をすれば強豪校になれると逆の因果として認識してしまっている。しかし、顧問は整理整頓を徹底させることで、強豪高校の顧問と仲間意識を深め、強豪高校との練習試合に幾度となく呼ばれるようになる。その結果として、自チームが強豪校との実戦を積み重ねることができ、県内での強豪校になる。そうなると、県内での他の高校も私のチームの整理整頓を真似するようになる、という螺旋状の連鎖が始まる。

 このようにして、部活動における精神論は、顧問同士のひと付き合いを活性化させたり、生徒に強豪校との経験を積ませたりすることなどと関係し合うことで、一連の現象が連なって、確からしい結果を生み出していく。現代日本においては、長きにわたって、このような呪術が確からしい結果(強豪校は気持ちが強く整理整頓ができる、という因果の取り違え)を伴って、中心として科学を周辺に追いやっている。

 一方で周辺である科学的指導はどうだろうか。科学的指導は、近年体罰問題や組体操の問題などから勢いを増してきている。つまり、日本国内でなくグローバルなスポーツ勢力図としてみたときに、日本のレベルがほとんどの集団競技において遅れていることに気づいたのだ。日本国内においては、強豪校が精神論を実践しているという証拠だけで、精神論的指導の妥当性が示されてきた。しかし、海外との比較が増えると、もはや精神論的指導がしていないにもかかわらず、日本よりも強いチームが相当数存在するのだ。この認識と現実のギャップを埋めるために、だんだんと、部活動現場でも科学が重視されるようになってきている。

 私の高校でも、前述したように科学的指導を行っていた。部活動において、科学を重視するようになると、顧問はだんだんと礼儀・気持ちの強さと同時に、自分のプレーを客観的に振り返る視点を要求するようになる。そうなると、生徒の心内は、精神論という絶対的なものを信じないといけない気持ちと、客観的・冷静な視点をもつべきだという視点が入り混じるようになる。その結果、「最後は気持ちだ!心を一つに!」という掛け声で試合を始めたかと思えば、ハーフタイムでは「落ち着いて考えよう、何がいけないのか。」と分析をはじめるという奇妙な状態が生まれる。そして、試合後には、「気持ちだけですぎて、熱くなっていた時間帯がいけなかった」とついに精神論を否定するような見解になるときも多々あるのだ。

 このように、部活動の現場においては、中心である呪術はあたかも因果関係のある科学であるように振る舞う。そして、周辺である科学は時として中心である精神論を否定する姿を見せるという相互作用が行われている。

 

4.相互作用に伴う問題点

 近代以降一般的な中心としての科学、周辺としての呪術という構図とは反対に、部活動教育においては、精神論という呪術は、長年の間あたかも科学であるかのように、中心として振舞っていた。

 そしてもちろん、科学である客観的な指導は、精神論という中心に対する周辺として「生徒の本当の成長につながらない教育」というレッテルを貼られることとなった。高校の部活指導において、挨拶・上下関係・気持ちの強さ・礼儀、ということを指導しない学校は、たとえ実力があっても精神論指導が中心である部活動の顧問界隈では「感じが悪い。指導がなってない」というレッテルを貼られる。その結果、練習試合に呼ばれなくなったり、顧問同士の技術的なアドバイスを交換の輪に入れなくなる。また、対戦相手校のビデオ映像や情報の入手がむずかしくなる。そして、その結果チームが客観的なデータ分析によって強くなる機会を失っている。呪術の作用によって、科学としての因果関係も弱まってしまう状態にあるのだ。

 また、科学的指導は、一方で、生徒の客観的データのみの偏重という事態を招く。何が客観的で何が主観的かの理解が及ばない中学生や高校生は、冷静に分析することを顧問に要求されるあまり、冷静に分析することを目的化してしまい、その客観的データを目的である勝利に結びつけることができなくなってしまう場合がある。その結果、データ分析をすると勝利できるという呪術的な使用をしてしまう。

 

5.まとめと課題

 本レポートは、部活動教育において、呪術と科学が実践されていることを指摘した上で、その両者の相互作用と問題点について論じた。部活動は伝統的に、精神論という呪術が中心・データ重視の科学が周辺という、近代の勢力とは反対の構図を持っていた。しかし、その相互によって、あたかも呪術を科学、科学を呪術と取り違えてしまうような構造を持っていた。また、呪術は科学の指導力を弱め、科学は呪術的実践化してしまうという相互作用の問題点も明らかになった。

 本レポートは、自らの体験のみを元に作成されている。しかし、今後は客観的に部活動教育を分析して、呪術と科学の構造と相互作用を明らかにする必要があるだろう。