「名称」とそのイメージについての一考察

      

 

 

 

私は大学時代に社会科学概論という授業を一年間学んでいた。その授業の中で、ある事象に付与された名称には、その名称が本来的に持つ意味とは別のイメージが、生活者の解釈活動の中で付与されるダイナミズムを理解することができた。ここに改めて整理したい。参考にした書籍は下記だ。

 

 

今、「資本主義」、「共産主義(あるいは社会主義)」という生産体制に付与された名称と、我々がその名称に抱くイメージについてもう一度考えてみることにした。このことを考えるにあたっては中・高生だったころは試験への知識としてしか見てこなかった「教科書」を再読してみることにした。教科書は今や全国民が避けては通れない道であり、影響力も尋常なものではない。それにもかかわらず、今になって考えると教科書には物事の本質とイメージとの間で違和感のある記述が多々ある。この違和感を解き明かすためにも「資本主義」と「共産主義」に付きまとう虚構的なイメージの検証を試みる。

 


まずは「資本主義」という用語について我々が持つイメージについて述べる。帝国書院出版の「社会科 中学生の歴史」においては次のような表記が見られる。「1970年代の初めまで続く経済の急成長は高度経済成長とよばれ、国民の生活水準は高まりました。」(236頁)「高度経済成長によって、人々の生活が豊かになる一方で・・・」(237頁)。ここからわかるのは、「『資本主義』体制下で可能となった(これは中学生には意識されないであろうが)」朝鮮特需や高度経済成長によって、戦後の国民は物質的に「豊かな生活」(要するに現代社会での生活様式)を手に入れたという事である。ここで注目したいのは、このような教科書によると、「失業者の増加」や「公害問題」「深刻な不況」などを資本主義の課題であるとする一方で、資本主義体制の存在を根本から否定するような「社会運動」や「資本家の混乱、動揺、謀略」についてはほとんど記述がないという点である。それはまさに、社会科学概論で学んだ労働争議の歴史であり、資本家による労働者へのリスクの押しつけであり、その裏に潜む「階級政治」という事である。このテストでは具体的な労働争議や階級政治についての批判は控えるが、この「階級政治」という概念を死へと追いやる様々な言説や、「中流意識」の植え込みによって資本主義体制下の政治の悪魔的な側面に人々が気づくのを防いでいるという事である。山川出版社の「詳説日本史B」の374こうには1960年代には「自分は社会の中層に属していると考える人々が国民の9~8割を占めるようになった。(中流意識)」との記述がある。まさかこの記述を高校生が疑うわけはないだろう。このようにして、日本社会が、資本主義の下に格差のない平等な社会であるという事を暗に示している。しかし実際には、このような「中」意識への調査は「恣意的な集計結果にすぎない」ものであり、その「中」意識という結果は「『豊かな』社会を生み出す『新しい』構造変化の兆候であり、その表れでなければならなかったのである。」(青木書店 「階級論の現在 イギリスと日本」126こう 著者:ジョン・スコット、渡辺雅男 ほか) このように現代日本の政治は「中流」の人が気づくと困るタブー的な側面を持っているのだ。このタブーとよばれる事(労働争議の歴史、階級という概念、資本家から労働者へのリスクの押しつけetc)について、記述がないことから、日本の教育もこの様々な「資本主義の裏の顔」の隠蔽工作の共犯だと言っていいだろう。ここまで来ると、資本主義社会で起こる労働問題(リストラ、子供の労働etc)や経済問題(深刻な不況、貧富の差etc)についての申し訳程度の記述はもっと大きな階級構造に気づかせないようにするための譲歩のようなものでないかとさえ思えてくる。このように資本主義について我々は「便利で豊かな生活水準」をもたらしてくれたシステムであるというイメージを持つだろうし、そのようなイメージを持たされてきたのだ。

 


次に「共産主義(または社会主義)」についての我々が持つイメージについて述べる。これも同様に教科書を参考に捉えていく。山川出版社「詳説世界史B」の327頁にはソ連が資本主義世界との交流なく社会主義の基礎を築いたと説明した後に「しかし、スターリンは古くから有能指導者をはじめ、反対派とみなした人びとには根拠のない罪状を着せ大量に投獄・処刑して独裁的権力をふるい、スターリンの個人崇拝を強めた。」また中国の文化大革命についても353頁に「10年にわたる文化大革命は中国内部に深刻な社会的混乱をもたらし、経済・文化活動を停滞させた。」とある。このようなことを学校の教科書で学ぶため、我々は「共産主義」及び「社会主義」という名称に対し「暴力的・独裁的」なイメージを持つ。また、ソ連が日ソ中立条約の期間内に日本の占領地への侵攻したことも、戦争を経験した人々にとっては共産主義への悪いイメージを持つ要因となるだろう。このような教科書の本質を探ろうとしない一面的な記述や、戦後の政府の共産党への弾圧や謀略によって「共産主義」のイメージは我々の中に作られていったのだ。また、近年においては尖閣諸島の領土問題などにより「社会主義国家」を名乗る中国への嫌悪感が浸透しつつある。そして中国への嫌悪感は強まり、「中国共産党は情報統制をする」「貧富の格差が大きい」「中国人は狡猾だ」などの面ばかりを強調して訴える人も増えている。これが現代日本での「共産主義」への拒絶を決定づけたのかもしれない。我々は、教科書でのスターリン毛沢東の失敗や、現在の中国の現状だけを「共産主義」のイメージとしてしまったのである。

 

 

我々は、国内では「中流意識」に見られるようなイメージの刷り込みが行われているのに、一方では中国政府の情報統制を批判するという矛盾に気づいていない。さらには、その矛盾の中に居るから(また、居させられるから)こそ国内の政治、経済体制、もっと言うと「資本主義」についての疑問を持たずに「共産主義」への抵抗を持ち続けるのである。

今まで見てきたように我々は「資本主義」の悪魔的側面に気づくことなく「共産主義」への抵抗を増してきた(安倍政権下でさらに増大するかもしれないが)。私はここで、共産主義を良く言い、資本主義を悪く言いたいのではない。私は、我々が「資本主義」や「社会主義」に抱くイメージが本質と乖離しているのではないかということである。現代には「資本主義」か「共産主義」、「右翼」か「左翼」、「原発稼働」か「電気料金の値上げ」、などの二項対立が数多く見受けられるが、この二項対立は片方への盲信、またもう一方への敵愾心を生む。これが時には人を戦争へと駆り立て、時には人を差別へ向かわせる。しかしその二項対立は概して、真に対立するものではない場合が多い。このような「ウソ」の二項対立の選択を迫られても、動揺することなく、また他人に二項の選択を迫るのでもなく、その二つのものの本質を探ることが重要なことである。そのためには真実のイメージをまず捉えなおさなければならないのだ。