読書の感想:『異文化適応のマーケティング』

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最近、積読していた本を再度読み始めた。

広告代理店勤務の身として、コミュニケーションに関連する章が特に興味深かったので、要約と論点を提示する。

 


 13章 異文化間のマーケティング・コミュニケーション1:広告

言語とコミュニケーションに基づく広告は、マーケティング・ミックスの中で最も文化に依存する要素といえる。したがって文化的な違いが、広告の様々な面に影響するのである。本章では前半に、広告への一般的な態度と文化差が広告戦略や表現の基準にどの程度影響を与えるのかを考察する。後半では、前半とは対照的に技術進歩によるメディア利用可能性やメディアの選択について話を進め、最後には広告のグローバル化について議論していく。

広告は国際的にみると有益なものである。しかし、広告は浪費であるとか否定的に捉えるパブリフォビアはヨーロッパ諸国を中心に依然と残っている。また、広告への態度や重視する点は国ごとに異なっている。特に比較広告への賛否は国ごとで大きく分かれ、有効性も異なる。

実際の広告戦略では、文化の差異を考慮し広告アピールの仕方や、広告の情報内容を考える。そこで、広告アピールでは、文化ごとの訴求点から象徴的アピールと情報型アピールを使い分けている。広告の情報内容は、その文化圏の人々が何を重視するかによって情報型、説得型、空想的・夢想型のいずれかに焦点をあてて作られている。一般に、広告戦略では情報内容とスタイルは現地の嗜好に適合しなければならないのである。

また広告の実行段階でも企業は意味の移転ができるよう考えなければならない。例えば、言語、ユーモアのタイプ、登場人物とその役割、視覚的要素というのは文化ごとに異なる。企業は同じ意味を伝達させるために、標準化できるのか、適応化しなければならないのか注意深く考慮する必要があるのだ。また、各文化にある道徳観や宗教の影響、そこから生まれた慣習などを考えなければならない。広告の実行は精密な情報に従って慎重に行われるべきなのである。

これまで広告の異文化間の差異に焦点を当ててきたが、グローバルなオーディエンスとともにグローバルなメディアも出現してきた。さらに、技術進歩によりインターネットやテレビ衛星も普及した。それと同時に、現在多くの広告会社も国際化され、その広告自体も標準化が増大している。しかし、実施やメディア計画などは標準化できない。ミッションなどとは違い、そのようなコミュニケーションを必要とするところでは適応化がされるべきなのである。

 


14章 異文化間のマーケティング・コミュニケーション2:人的販売、ネットワーク、パブリック・リレーションズ

 この章では人的販売とパブリック・リレーションズについて議論していく。そのために、商取引、ビジネスネットワーク、買い手と売り手の相互作用などにも言及しながら話を進めていく。最後には、人的販売で倫理的な問題となる賄賂に関して述べていく。

 商取引では、サービス主体論への移行に並行して、売り手と顧客との相互作用を重視されるようになった。つまり、技術を活用し顧客との有効な関係性を築き、維持することが必要になる。そのような関係性マーケティングにおいては、販売員の担う役割や、顧客接点を文化差に注意しながら作ることが重要である。また、企業同士の関係性も同じように大切である。しかし、中国の独特の「关系」マーケティングと呼ばれるもののように、文化によってその関係性のあり方は根本的に異なる。

 売り手となる販売員の役割は重要である。しかし、販売そのものに対するイメージや、金銭の価値観、権力格差などの要因から販売員の社会的なステータスや役割が決定される。したがって、文化によって販売員の行う業務は異なる。さらに、買い手と売り手の立場も国によって異なることを注意しなければならない。

このような異文化を比較して、販売員のマネジメントを考察していく。給与体系や、販売員のインセンティブはもちろん文化間で異なる。インセンティブの制度は、ホフステッドの次元を用いて大きくモデル1とモデル2に分けることができる。前者は個人主義的で低コンテクスト、加えて権力格差が小さく不確実性回避傾向が高い社会に当てはまる。後者はそれとはまったく反対の社会に当てはまる。報酬制度もこれに当てはめ考えられる。これらは極端なもので、実際には組み合わされるものである。報酬システムの標準化は変動性が小さい地域では可能であるが、文化的価値や商品のカテゴリーにあった形で実施、設計することが重要である。

パブリック・リレーションズには2つの役割がある。1つは平常時に好ましい企業イメージを創造、改善することであり、もう1つは危機的な状況下で企業側の誠意を伝えることである。これらの広報活動は信頼や関係性を保つためにコミュニケーションに重点を置いている。そのため、企業はローカルに考えて現地の人々の権利を重視しなければならない。さらに、企業には誤解を生まないような明確なメッセージを発信する責任がある。

収賄の習慣は、多かれ少なかれどんな文化にもみられる。しかし、文化によっては贈収賄のタイプや、金額などの方法も異なる。このような倫理的な問題は、善悪の判断は文化次第であるとする文化的相対主義と、普遍的な倫理上の基本原則が存在するという文化的普遍主義という2つの考え方から捉えることができる。国際的には、OECDの協定や、ICCの働きなどにより賄賂への規制は進んでいる。実践的見解としては、賄賂は常にリスクをともなうため、個人が自己の規範に従って考えるべきである。

 


論点

 論点は2つある。

まず、p.495にドイツ文化のように不確実性回避傾向の高い文化は、より不確実性を減少させる情報の量が多い広告を好む傾向にあると述べられている。これは納得できる論理ではあるが、事実に反しているように思える。なぜなら、第3章で扱ったp.68の表によれば西ドイツの不確実性回避は65とあるのに対して、広告の情報量が少ないと書かれていたフランスは86、イタリアは75と書かれており、ドイツよりも不確実回避の傾向は強いと思われる。すると、情報量の差は不確実性回避とは関係がないようである。それならば、コンテクストの程度、美に対する志向など、他の要因が考えられるのではないかという疑問を抱いた。もしくは、ここで述べられていたドイツとイタリア・フランス情報量の差は広告の媒体によって異なるのかもしれない。

 つぎに、p.576とp.579に、発展途上国では贈収賄などの不正が多く、東欧のデンマークフィンランドニュージーランドでは不正の割合が少ないと述べられている。さらに、これらはインフレ率や賃金水準、経済状況に起因していると書かれている。私は、加えて政治の体制や権力格差の問題があると考える。独裁政治などが起こる権力の格差が大きい地域では、監視する機関が機能しないため不正が起こりやすいのだと思われる。実際、不正の水準が低い国では概して権力格差の割合が高くない。また、本文では発展途上国の倫理基準が低いと考えるのは賛成しがたい考えとあるが、経済状況やインフラなどの関係から十分な教育が受けられないことは事実であり、倫理基準が低くなってしまうことはあるのではないかと疑問に思った。

 

その他の参考

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