日本における政治と宗教の関わり方はどうあるべきか? Part2

 

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1.はじめに

 本記事の目的は、日本社会において広く普及している行事(正月・クリスマス・葬式・バレンタイン等)において、T.ニッパラダイの提唱した「流浪する宗教性」という現象がみられるのかどうかを明らかにすることである。

 日本社会における正月・クリスマス・葬式などの、何らかの節目に執り行われる行事はしばしば、「日本は無宗教である」「日本は多宗教である」という議論と結びつけられることが多い。なぜならば、正月は神社に参拝し、クリスマスにはプレゼントを譲渡し、葬式はお寺で行う(家庭によって異なるが)という諸行事は神道キリスト教・仏教という異なる宗教がベースであるからである。また、日本社会においてそれらの行事は宗教的行事であるということがもはや意識されていないということも、上記の議論の要因の一つだろう。

 しかし、この日本社会における宗教的現象を単純に「無宗教」「多宗教」であると分析するのは、あまりに短絡的ではないだろうか。このような問題意識から、本レポートではまず、日本社会における上記のような諸行事を、「流浪する宗教性」という概念によって分析する(第2章)。そして次に、それらの行事に認められる「流浪する宗教性」が消費社会と分ちがたく結びついていることを明らかにする(第3章)。さらには、諸行事にみられる「流浪する宗教性」が、近代社会の形成とともに発展してきた科学性を持ちながらも、神秘主義的そして時にはオカルティックな要素を併せ持つという二面性を明らかにする(第4章)。最後に、日本社会において消費されるさまざまな「宗教性」が、これからどのような方向にむかっていくのかということについての可能性を示唆する(第5章)。

 

2.日本社会の諸行事に見られる「流浪する宗教性」

 本章では、「流浪する宗教性」が、日本社会における正月・クリスマス・葬式という、何らかの節目において執り行われる行事において、どのように認められるのかということを明らかにする。

 まず始めに、正月という行事は、神道がもとになっている。また、この神道という宗教は日本が起源の多神教であると言われている。神道は、日本の国民国家形成・近代化・ナショナリズムの高揚のために、利用されたという歴史をもつ。そしてこのことが、第二次大戦後に反省され、見直されたことは、政教分離の原則や、現代の宗教の多様性に見てとれる。

 クリスマスは、日本社会においては、キリスト教の内にあった宗教性が、キリスト教から離脱し、文化現象の中に流入した最も顕著な例であるだろう。大衆的なクリスマスというイベントには、もはや「イエス・キリストの誕生を祝う」要素はなく、各々が家族あるいは親密な他者とプレゼントを譲渡し合うという性格をもっている。

 最後に、葬式は、その一族が仏教系でない場合や、仏教系であっても日常において、仏教の宗教性は全く意識されないような家庭においても、仏教式に執り行われることは多々ある。これは、「自らは無宗教である」という意識はあるが、誰かがその生を終えたときに「何もしない」ということを避けるために、一般的な仏教式の葬式が行われることが多いだろう。

 以上のように、日本において何らかの節目に行われる行事は、その宗教性が、本来その行事が属していた宗教(神道キリスト教・仏教)の文脈から逸脱し、大衆文化の中に流入し、独自に解釈され、変容している状態を顕著に表している。このことから、日本において執り行われる諸行事には「流浪する宗教性」が見られると言うことが明らかとなる。

 

3.消費される宗教性

 前章では、日本社会における正月・クリスマス・葬式という行事に「流浪する宗教性」が見られるということを説明した。本章では、その「宗教性」が消費社会と分ちがたく結びついていることを明らかにする。

 正月に、人々は一般的に知人に年賀状を送り、おせち料理を食べ、神社に参拝をする。この一連の行動において,大衆の間ではもはや「神道」という宗教は意識されていない。つまりは、この場合の「神道」は人々の行動を規定してはいないのである。しかしながら、正月にみられる上記のような行動は、日本大衆の多くが毎年行っている。ここで、大衆の行動の規定因として考えられるのが消費である。年賀状にしろ、おせち料理にしろ、参拝時のおみくじにしろ、そこには金銭を支払い、何か得るという経済活動としての消費という要素が存在する。クリスマスにおいても、クリスマスケーキ・クリスマスツリーとその装飾品・会食・プレゼントの購入など、きわめて多様な消費が行われている。葬式も、葬儀会社がさまざまなグレードの葬式を提示し、会食・弁当・粗品の譲渡などの消費活動が行われる。

 このように、正月・クリスマス・葬式という行事は、その行事のベースとなっている宗教ではなく、消費によって強く規定されている。そのような行事においては、日本人口のきわめて多くの人が何らかの形で消費をおこなうため、企業にとってサービスや製品を提供する絶好の機会なのである。近代化・産業化・資本主義化において、その力を強めてきた消費が、「流浪する宗教性」と結びついて、諸行事の宗教性をより大衆文化にとって受け入れやすいものにしていく過程が見て取れる。

 

4.「流浪する宗教性」の2面性

 前章では、日本における正月・クリスマス・葬式という行事が、元の宗教から逸脱し、消費と強く結びついて、大衆文化に流入していくことを説明した。本章では、そのような「流浪する宗教性」が科学的側面と、オカルティックな側面の2面性を有していることを明らかにする。つまり、消費社会において宗教性が消費されているが、そもそも人々はなにを考えて、そのような行事をおこなっているのかということを分析し、それが上記の2面性をどのような形で有しているのかということを説明する。

 正月は、前年一年への親類や知人への感謝と、本年度の一層の親交を願う。また、参拝においては、何らかの「願い事」をする。これはつまり、そのような宗教的行事を「原因」とすることで、自ら願ったことを「結果」が得られるという意図が見て取れる。また、クリスマスにおいては、現代日本においては、思いを寄せる人と結ばれることや、恋人と一層親交を深めるというイベントと捉えられている面もある。ここにも、クリスマスという宗教的行事が「原因」となり、縁結びや親交の強化という「結果」が想定されている。葬式においても、同じように、葬式を行い、経を読んでもらい、火葬することがが「原因」であり、故人の死後の世界での安寧・幸福が「結果」とされている。もちろんこれらのことは、各人が明確に意図している訳ではないが、無意識的にそのような意図をもって行事を行っていると考えることはできる。このことは、原因と結果という因果関係を想定し、それに伴って行動を行うという意味で「科学的」であると言うことができる。つまり、日本社会における宗教性は科学的な利用をされている。

 一方で、このような「科学性」は自然科学・社会科学においての、厳密な手続きがなされた上で同定された因果関係ではない。むしろ、大衆文化の中で、行事がより多く消費されるために、擬似的な因果関係が設定され、「もっともらしさ」が付与されたものであると考えられる。誰も神社で「億万長者になれますように」と願ったら、本当に億万長者になることができると思っているのではないが、それでも人々は神社に参拝をし、「なんとなく」ことがうまく行きそうな「感じ」を味わうのである。このような側面は、上記の科学的な側面と反対に、きわめて神秘主義的・超現実的・オカルティックなものであるだろう。

 このように、人々は宗教性を消費する過程で、擬似的ではあるが「科学的」な因果関係に従って行動をしている。その一方で、その科学性は擬似的でしかなく、ともするとオカルティックな側面をもつ。日本の諸行事にみられる宗教性は、この相反する2面性を持っているのである。

 

5.これからの「流浪する宗教性」

 これまでの章では、日本社会に「流浪する宗教性」が認められること、その宗教性は消費によって強く規定されていること、さらには、科学的側面とオカルティックな側面をもつことを説明してきた。この章では、本レポートの終章として、日本社会における「流浪する宗教性」がどのような方向に向かっていくのかということについて論じる。

 日本社会における宗教性が消費と強く結びついているということは、今後大きく変化しないだろう。なぜならば、宗教性の消費という市場は、日本において莫大な経済活動領域である。12月は、クリスマスによる支出と正月を迎える準備のための支出(クリスマスプレゼント・おせち料理・年賀状など)が重なる時期である。総務省統計局によると平成25年度のデータでは、12月は一ヶ月あたりの支出総額が一年の内で最高額である。このことからも、正月とクリスマスにおこなわれる経済活動の大きさが見てとれる。

 さらには、上記のような「科学的」な因果関係が設定されていることもあり、大衆に受け入れられ易く、文化に広く・深く根付いている。人々が、「科学的」な因果関係によって裏付けられた宗教性を消費する限り、経済活動と結びついた宗教性は依然衰退することはないだろう。したがって、これからは宗教性が消費されることによって、社会にどのような弊害が生じるのか、どのような利益があるのか、宗教性と消費の関係を変えるためにはどうすれば良いのかということについての更なる研究がなされることが期待される。